楢山のカマクラ行事

2017年2月12日
一昨日は刈和野の大綱引き、昨日はなまはげ柴灯祭りと続いてさすがに疲れが出ている。
たくさんの人並みにもまれてきたし、雪道の移動も結構大変だった。
だが今は行事ラッシュの小正月、今日はひっそりと慎ましく行われる行事を見たい、それもすぐ近所で!
「そんなに都合よくお前のワガママに合わせた行事なんかあるもんか!」という声が聞こえてきそうだが、あるんです。この時期の秋田には
それが今回訪問した「楢山のカマクラ行事」である。

カマクラ行事については先日訪問した大保のカマクラ行事の中で簡単に紹介したが、あらためて記したい。
まず第一に、カマクラ行事とは家内安全、無病息災などを願う小正月行事だ。
一般的には横手のかまくらに象徴されるような雪室のことを「かまくら」と呼ぶが、「カマクラ行事」とは元々雪室を作ったのち(雪室の中には通常水神様が祀られている)、雪室を中心に行われる「鳥追い」、「左義長」、「綱引き」といった行事、子供たちのそり遊びなどを包括的に称した呼び名である。
したがって、一般的にカマクラを作ってから破却するまでが行事期間と言われており、ある特定の行事を指す名称ではない。
例えば秋田県内で名前が知られているのは「六郷のカマクラ行事」だが、11日の蔵開き、天筆書初め、12日の小正月市、天筆掲揚、鳥追い小屋造り、15日の餅つき、小正月の年とり、天筆焼き、竹うち、鳥追いのこれら全てを総称してカマクラ行事と呼び、行事期間は2月11日~15日とされている。

さて楢山のカマクラ行事だが、肝心の日程や行事のタイムテーブルが全く分からない。
ネットで探すと結構たくさんのサイトで行事の様子を垣間見れるし、行事の様子は大体把握できるものの、スケジュールが分からないのはちょっと不安だ。
ただ、幸いにも家から20分も車で移動すれば現地に着くし、それほど心配せずともよい。
何もなければ帰るだけだ。
同じ秋田市内といえども、行事が行われている楢山太田町(ならやまおおたまち)に行くことは多くない。
会場の場所をgoogle mapで確認し、ちょうど12時に家を出た。

途中、コンビニに立ち寄ってブラブラとしながら1時には楢山太田町内へ到着
カマクラはどこかな~などと考えていたら、会場への道順を示す看板が立てられていた。
045
なんだか立派な看板ではないか。
知らない人がこの看板を見たら、結構大きい規模の冬祭りが行われているのだな、と錯覚するであろう。

看板の示す道順通りに左折するとやや細い道に入る。
車が2台すれ違うのがやっとのかんじ
ホントに会場はあるのかな?などと思っていたら、もう一つ同じような看板が出てきた。
045

右折せよとのことだが、この先は車で進入できない。
すぐそこにコイン精米所があったのでその前に車を止めて、歩いて会場に向かう。
というかホントに会場に着くのですか?
この奥になんかありそうな気配は皆無だが‥
045

少し歩くと短い坂があり、そこを上る。
上りきった先は開けた場所っぽい。
045

上りきると会場らしき場所に出た。
右側に視界を移すと‥
045

おお‥あった
これが噂に聞いていた楢山のカマクラかあ‥
045

カマクラは本当に、本当にひっそりと佇んでいた。
民家から少し離れた場所に素朴かつ折り目正しく佇むその姿はなぜか心を温めてくれる。
正面に回ってみる。
045

045

もっとこじんまりとしたものを想像していたのだが、思っていた以上に大きい。
後日秋田魁新報に記事が載っていたので読んだところ、高さ2,5m、幅4,5m、奥行き7mとのことだった。
045

045

045

稲 雄次さんの著書「カマクラとボンデン」に楢山のカマクラに関する記述がある。
このカマクラは戸板に雪を敷き詰め、それを踏み固めて、さらに水をかけて凍らせて雪の壁をつくるところから始めるそうだ。
そこに木や藁を置いて屋根を作るのだが、壁作りは大人たちの仕事、屋根掛けは子供たちの仕事になっていたらしい。
今は地域の高齢の方々が全体を作っている。
045

そして、楢山のカマクラは稲 雄次さんが著書の中で「トリゴヤ型」と分類する、長方形の形をしている。
これは六郷のカマクラ行事と同じタイプになる。
因みに全国的に有名な横手のかまくらは「雪穴型」とされていた。
045

カマクラ近くの坂
秋田魁新報の記事に添えられた写真を見ると、2月8日には結構たくさんの人が集まっていた。
ここで子供たちがそり遊びをしたのだろう。
045

今日は日曜日だし、なんかやってないかな?ということで、すぐ近くの家の前で雪かきをしていたご婦人に話を伺う。
なんでも昨日は子供たちが餅つきと1/2成人式(10歳のお祝い)を行ったが、雪があまりに降るので屋内での開催となったらしい。
今日は行事が執り行われる予定はないが、もしいろいろカマクラのことで聞きたいのなら、木谷(きや)さんの奥さんに話を聞いたらどうかしら?と教えてくれた。

早速木谷さん宅を訪問
木谷さんのご主人は楢山カマクラ保存会の初代会長、木谷正一さん
正一さんは、現在お体をこわし入院中とのことだったが、奥様がいろいろ説明してくださった。
今年のカマクラ行事期間は2月8日~18日とのこと
お持ちいただいた町内会の会報によると‥
2月8日  カマクラ作り
2月11日 1/2成人式、餅つき
2月13日 保育園児に開放
2月18日 どんど焼き、(カマクラ横のなかよし会館にて)反省会、カマクラ解体
というスケジュールだった。
そもそもこの行事は100年ほど前に行事の最中に火災が発生し、それが理由で警察から中止命令が出ていたのを、1975年に木谷正一さんが中心となって復活させたという経緯がある。
一旦途絶えた行事だけに中身もいにしえと異なると思うが、地域コミュニティの中でひっそりと行われてきた様子が伝わってくる。

雪室についてもいろいろ教えてくださった。
基本的に地区の人たちだけで建てるらしいが、木谷さんは「若い人がなかなか参加してくれなくてねえ」と仰っていた。
後日読んだ秋田魁新報の記事によるとカマクラ作りに携わった人たちのなかで最も若い人でも50歳代とのこと
あの大きさの雪室はそう簡単に作れるものでない。
おそらく相当に体力を要するだろうし、地区の若い人が一人でも参加すれば様相も変わってくると思うのだが‥
また、この行事を紹介したサイトには、カマクラ前に箱ぞりが置いてある写真がいくつか掲載されていたのだが、それらの箱ぞりも去年全て破棄してしまったとのこと
「わぁ、もったいないですよー!」と思わず叫んでしまったが、こればかりは地区の人たちが決めて、地区の人たちがすることなので、部外者である管理人がとやかく言うことではない。
因みに箱ぞりとはこういうものである(秋田県立博物館で撮影)。
045

今は木で屋根が組まれているが、以前は藁を葺いた屋根だったらしい。
そしてその藁は行事最終日のどんど焼きで焚かれていたそうな
稲 雄次さんの「カマクラとボンデン」にも同様のことが書かれており、「その火で焼いた餅を食べると1年間風邪をひかない」と言われていたそうだ。
だが、木谷さんによると現在楢山太田町内には米農家はないらしい。
なので町内で藁を調達することはできないのが現状だ。
時代の変化が行事にも影響を及ぼしており、木谷さんも何だか寂しげな様子だったが、それでも「これからも続けられるうちは行事を止めることはないと思いますよ」と仰っていた。

木谷さん宅を後にして再びカマクラ会場へ行く。
するとお隣の横森地区から遊びに来たというおじいさんとお孫さんに遭遇
おじいさんが「カマクラの中に入れますか?」と尋ねてきたので、「入っていいと思います。一緒に行きましょう」となった。
入口の菰筵(こもむしろ)をたくりあげて中に入る。
045

045
外から見ただけでも結構雪の壁が頑丈なのが分かったが、中に入ると堅固な建築物であることがより伝わってくる。
かつては15歳ぐらいの年長の子供がここで寝泊りしたらしいが、別に寒いとは感じないし、今でも寝泊りできそうなぐらい快適な空間である(ただし暖房器具は要るであろう)。

空間の片隅に設けられた祭壇
「カマクラとボンデン」にはお供え餅二組、御神酒一升、塩とトギ米、鰰、大根や人参などの野菜、赤身の生魚二匹、スルメ、ローソクが供えられたと書かれてある。
045

水天宮と鎌倉権五郎の掛図が掛けられている。
「鎌倉権五郎(かまくらごんごろう)」とは平安時代後期の前九年の役、後三年の役で名を馳せた実在の武将であり、後三年の役の際に弓矢で片目を負傷したにもかかわらず、奮戦した姿が一種の英雄伝説として広く流布されている。
その一方で稲作を秋田に広めた人物とも言われている。
そして重要なのは、「カマクラ」はこの人物の姓が由来と伝えられていることだ。
「カマクラ」の名称の由来については、「カミクラ説」「鎌倉幕府説」「カマド説」など諸説あるが(3月3日にNHKで放送された「秋田ミンゾク大全集~あなたの知らないカマクラの世界」では「カミクラ説」を紹介していた。この番組は楢山のカマクラも取材していた)、鎌倉権五郎が起源の可能性はかなり高いと管理人はにらんでいる。
045

045

一緒に中に入ったおじいさんとお孫さんを撮らせてもらいました。
045

そしてカマクラを出て楢山地区をあとにする。
車を止めた精米所から見た風景
近くを流れるのは太平川
045

餅つきや子供たちのそり滑りの様子を見ることはできなかったが、カマクラの素朴な佇まいを見るだけでもたいへんに貴重な体験が出来たと思う。
カマクラが原初の形態に近いこともあって、その昔、子供たちがカマクラの周りではしゃぎながら遊ぶ様子、大人たちがその姿を見て微笑んでいる様子などが目に浮かんでくるようだった。
かつては、秋田市内、いや秋田県内各地でそういった光景が見られたのだろう。
「カマクラとボンデン」には稲 雄次さんが秋田市牛島で、土地の古老から聞き取りをした、幼い頃のカマクラ行事の様子が書かれているし、木谷さんの奥様も「昔は(秋田市)泉でも行事をやっていたよ」と仰っていた。
そして時が経つにつれて数多のカマクラ行事が消えていく中で、今なおいにしえの形を残している(途中途絶えたとは言え)楢山のカマクラは大切なもの、失ってはいけないものは何か、ということを私たちに問いかけている気がする。


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です