川上地区連合盆踊り

2017年8月16日
今回は「川上地区連合盆踊り」
田子内盆踊り男鹿の盆踊りと来て、またしても盆踊りなのである。
8月13日から始まる週、管理人は完全に盆踊り脳(略すと「盆脳」)になっていた。
川上地区は小坂町北部、青森県と県境を接しているほどの距離だが、寝ても覚めても盆踊り(自分じゃ踊らないんだけどね)ということで、この日も当たり前のように盆踊り鑑賞に向かったのだった。

盆踊りが行われる川上地区の濁川(にごりかわ)には、6月4日の濁川の虫送りの際にお邪魔させていただいた。
あいにくの雨で虫送り巡行は行われなかったが、川のほとりでワラ人形を焼く様子を見させてもらったうえ、直会にも入れていただき、集落の方々にたいへん良くしてもらった思い出の地でもある。
そのときに川上地区連合盆踊りについてもいろいろと教えていただいており、実はこのときから8月の訪問を計画していたのだった。
そして、濁川の虫送りの記事化の際に、行事の写真をご提供くださった中村 義信さんから事前に情報をいただき、準備万端整ったうえでの川上地区訪問となった。

8月16日
仕事を早めに切り上げ、一路小坂町へ向かう。
国道285号線をひた走り、鷹巣ICから秋田道に乗って小坂北ICまでまっしぐら。特に時間のかかるものではない。
が、気になるのが「雨」
お盆を過ぎてから不安定な天気が続き、今日もなんだか雲行きが怪しい。
で、大館を過ぎたあたりでポツポツと降ってきてしまった。
どうなることかなあ‥、屋内開催になっちまうのかなあ‥と不安を抱えたまま、小坂北ICを下りて会場となる川上公民館に到着
公民館前の広場に櫓や太鼓などがセッティングされていない、ということは屋内開催かあ。。。残念。。。

義信さんから、今年初の試みとして夜店を出店するという情報をいただいていた。
焼き鳥にビール(いや、ノンアルコールビール)で、涼やかな夏の夜空の下、盆踊りを楽しむというプランはもろくも崩れ去ってしまった。返す返す残念

因みに屋外開催の様子はこんなかんじです(以前行われた様子です。義信さんから提供いただきました)。

この地区においては太鼓を雨に晒すことは、たとえ少雨でも回避される傾向にあるため、本当に雨の心配がないときでないと屋外開催とはならない(はず)。
晴れ空の下の盆踊り鑑賞は来年以降の楽しみにとっておきたい。

ちょうど踊り開始時刻である7時に会場に入る。

管理人のことを覚えていてくれた濁川集落の区長さんが声をかけてくれた。
盆踊り開始前の忙しい時間だったと思うが、本当に恐縮です!
他にも義信さんはじめ、虫送りの際にお世話になった方々にお会いすることができた。
やはり見知ったお顔を拝見すると、何だかホッとする。

すでに4~50人ほどの見物客(ほとんどが川上地区の方かと思う)が揃っており、会場後方には太鼓担当がすでにスタンバイ済み
そして管理人が会場へ入ったのとほぼ同時に太鼓の演奏が始まった。
「呼び太鼓」である。


やはり屋内の太鼓はとにかく音が響き渡る。
大太鼓特有の、やや高温の、乾いた音が響くのはどこか気持ちいいものがある。

秋田民俗芸能アーカイブスでも同じ映像を見たが、とにかくこのサイズの大太鼓を一人で持って叩くというのがスゴイ。
反り気味の姿勢を保つためによほど背筋に負荷がかかっているのだろう、一曲終わるたびに皆一様に太鼓に突っ伏してしまうのだった。
文字絵で書くと「ro=」といったところか?

ちびっこよ、頑張れ!

秋田民俗芸能アーカイブスのDVD「川上地区連合盆踊り」を見ると、何人かの子供たちが公民館ステージで大太鼓を披露する場面が映っている。
今回はそのようなシーンはなかった。
やはり子供たちの数が減っていて、まとまった人数が集められなかったのだろうか。
濁川の虫送りの際に、集落の中村周傍さんからいただいた自著「無為漫録 第二集」には、8歳の男の子が大太鼓演奏の練習に打ち込む様子が書かれている。
これからも川上地区生まれの少年・少女たちが一人でも多く、大太鼓の仲間に加わって欲しいと思う。

公民館入り口辺りで踊り手がスタンバイ中です。

会場の端のほうには来賓用のテーブルが設置されており、小坂町町長もいらしていた。
町長は濁川の虫送りの直会にもお見えになっていた。

以前、濁川の虫送りを取材した折には「かづの大太鼓」として紹介したが、こちらの「川上大太鼓」は同じものである。
川上地区は野口、濁川、余路米、砂小沢の4集落で構成されており、どうやら4集落の大太鼓と演奏者が集結するのが、今日の盆踊り行事ということのようだ。

「七拍子」で太鼓演奏は終りとなる。
そのままの流れで盆踊りへ移行
まずは「大の坂」


「大の坂」と言えばなんといっても「毛馬内の盆踊り」だが、本来は越後系とも呼ばれるように新潟県中~北部にかけて広く知られている踊りである。
どのようにして大の坂が毛馬内の踊りに取り入れられたかは定かではない(明暦三年・1657年に南部藩主直臣 桜庭光英が現在の岩手県宮古市から移封になったときより踊りが始められているので、岩手県沿岸部から伝わってきたという説が有力です)が、おそらく川上地区に関しては毛馬内(または毛馬内周辺)から伝播したと思う。
頬かむりに襦袢の出で立ちといい、太鼓から始まる盆踊り唄の構成といい、毛馬内とほぼ同じなのだ。
因みに同じ小坂町の「七滝地区盆踊り」も同様に毛馬内の影響下にある考えられる。


太鼓のみのリズムに振りを乗せるのはなかなか難しそうだ。
それでも、赤と紫の襦袢に頬かむりの女性2人は綺麗な踊りを披露する。
それ以外の参加者は、真面目に踊っている人もいれば、正装の女性をお手本にしようと横目で見つつ踊る人もいるし、ただ歩くだけの人もいる。
要は自由に踊りの輪に加われるということだ。

濁川集落の区長さんも踊っています。

踊り手は自由な格好で、好きなタイミングで輪に加わることができる。
やはり、年配の方は比較的振りを覚えているようで楽しそうに踊っていたが、若い人は振りが分からずちょっと戸惑っている様子が見受けられた。
小さい子供たちは、走り回ったり転げまわったり、何だか大勢の人たちが集まっていること自体が楽しそうだ。

正装の女性が増えてきましたよ。

「無為漫録 第二集」には川上地区盆踊りの様子が紹介されている。
著者の中村周傍さんが青年団に籍を置いていた頃は、踊り手は250名、甚句の唄い手は10名を超えており、盆踊りの輪が二重になっていたぐらいの大人数だったそうだ。
赤襦袢に頬かむりの踊り手が並び踊る姿はさぞかし壮観だったに違いない。

続いては「甚句」
これも毛馬内と同様に複数(川上地区は3人)の唄い手が交代で唄い、それに合わせて踊るスタイル


「盆の十六日闇の夜でくれろ 嫁も姑も出て踊る」「踊り踊らば品よく踊れ 品のよいのを嫁に取る」といった数十にも渡る唄を繋いで唄う。
これらは「鹿角甚句」と呼ばれる唄で、鹿角を中心とする一帯に広く伝えられている。
どうやら振りも共通のようだ。

唄い手の皆さんの熱唱が続く。

こちらの方が中村周傍さん
周傍さんは、太鼓も叩くし、甚句も唄うし、MCも務めるわでまさしく八面六臂の活躍ぶりだった。

義信さんより「一緒に踊んなよ」と促される。
盆踊り取材の折に踊りの輪に入れ、と言われることがあって、いつもは「いやあ、ボクは撮影がありますんで。ハハハ‥」とか適当なことを言って逃げているが、今回ばかりは義信さんの押しに耐え切れなかった。
ということで下手くそな踊りを披露しております。

踊ってみた感想は「とにかく難しい!」の一言に尽きる。
横で踊っている方をガン見しているのだが、手も足も格好も何も合わせられない。
手の振りをマスター 2週間、足の運びをマスター 3週間、手と足を同時に動かす 4週間、人様に見せられるぐらいになる priceless、もといimpossibleというところだろう。

盆踊りではお馴染みの光景だが、踊り手に様々な景品が渡される。
この日もティッシュ5箱セットや台所用洗剤、サランラップが紐にくくられて踊っている最中の踊り手にかけられる。
管理人もちゃっかりいただきました。

甚句が続く。

柳沢兌衛さんという方の著書「毛馬内の盆踊」を読むと、もともとは遊興芸の囃子唄であった甚句が、盆供養の唄として盆踊りに組み入れられたのではないか、との推測がなされている。
それが毛馬内を含む鹿角地方一帯に伝播する中で、伴奏がないという特徴を持ったということらしい。
無伴奏の甚句ということで言えば、青森県の旧南部藩領である三戸郡階上町や旧南郷村(現八戸市)にも見られるそうだが、そちらのほうは「ナニャドヤラ」として受け継がれている。
こちらが階上町晴山沢のナニャドヤラ。たしかに無伴奏


肝心の甚句の発祥については「『甚九』という名前の人が歌い始めたから」とか「かつての領主 南部信直が安東愛季の侵略を防いだおりに披露された『陣後唄』がルーツだから」といったように諸説ある。
いずれにしても、鹿角から青森県南部の旧南部藩領にかけて広く分布している訳でもあるし、何らかの調査が行われることを期待したい。

そして甚句のあとは「じょんから踊り」
これまた毛馬内と同様である。

じょんから踊りについては、著書「毛馬内の盆踊り」に明治の頃に弘前の陸軍に入営した若者たちによってもたらされた、との記述がある。
「大の坂」や「甚句」とは異なり、その由来が極めて明確だ。
とすれば、毛馬内風とも呼ぶべき、ここ川上地区の盆踊りは明治以降に「大の坂」「甚句」「じょんから踊り」がパッケージ化されて鹿角方面より伝わってきたと考えられるだろう。

そして8時を過ぎて踊りは終了
踊りの終了に際して、送り太鼓が披露された。


毛馬内には送り太鼓がついていないので、この点は相違しているが、著書「毛馬内の盆踊り」によると鹿角市内に伝わる盆踊りの中には「太鼓の合撃でしめくくる所もある」と記されているので、川上地区についてはそちらの類型であるということが言えよう。

そして、送り太鼓も終わり、盆踊りが終了となる。
早速会場の片付けが始まった。

管理人も、今回もお世話になった濁川の皆さんに挨拶をして会場をあとにした。
外に出ると、始まったばかりの頃はパラパラと降っていた雨が本降りになっていたのだった。

川上地区盆踊り
おそらくは秋田県最北の盆踊りであろう。
「毛馬内系」とでも呼ぶべき特徴を持った盆踊りであり、そのルーツの謎と相まって何やらミステリアスな雰囲気を湛えた踊りだった。
それでも、会場内は家族連れや高齢の方々が入り混じり、ほのぼのと和んだ空間となっていた。
にしても、悔やむべきは「雨」!!
虫送りの際にお世話になった幾人かの方々から「せっかく来てくれたのに、またもや雨で申し訳ないねー」と声を掛けていただいた。
いやいや、そんなことないです。というかむしろ、管理人が濁川、川上地区にとっての雨男のような気がする。
いつの日か、あのけたたましく、勇ましい太鼓の調べに乗って、この盆踊りが踊られる夏の夕べのひとときを過ごせる日を期待するとともに、またまたお世話になった濁川の皆さんと次にお会いできる日を楽しみにしたい。


“川上地区連合盆踊り” への4件の返信

  1. 毛馬内によく似るも、此処だけの特徴もある興味深い盆踊りですね。
    紋付きではなく襦袢で踊られていましたが、男性の正装はどうなっているのでしょうか?
    最後の“じょんから”は昭和初期に流行った“中節”と言われるものなので、その頃の伝搬なのか?、津軽の流行に合わせて旧節から変えたのか?、謎が増えてしまいました。

    1. ふじけんさん
      コメントありがとうございます!
      そうですね。毛馬内の系統に属しながらも、独自のカラーを垣間見せる面白い盆踊りでした。
      男性の正装は分かりませんでした。
      毛馬内になぞらえれば、女性と色違いの襦袢とかを着るんでしょうかね?
      中節?旧節?すいません、不勉強でよく分かりません!!
      今度ゆっくり教えてくださーいm(_ _)m

  2. 冒頭の『川上連合』、、、何だか○走族みたいで、少し(笑)。
    雨が降ろうが、槍が降ろうが、とにかく太鼓を大切にして『先祖供養!』。
    お見事❗️

    1. 隣人1号さん
      いつもありがとうございます!
      川上連合ではなく、川上地区連合です(笑)
      一人が担ぎ手、もう一人が演奏する計2名による大太鼓披露というのはよくありそうですが、あのでかいサイズの太鼓を一人担ぎで演奏する姿は一見の価値有りです!
      川上公民館に轟音が鳴り響いていましたよ~。
      そして、旧南部藩領に広く伝わる「ナニャドヤラ」との関連が指摘されている甚句といい、実は見どころ満載の奥の深い盆踊りでした。
      秋田には本当にいろんな盆踊りがあるんですね。

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