藤巻の厄神立て

2018年6月10日
この日の午前中、秋田市新屋の鹿島祭りを鑑賞したのち、横手市大雄へ移動して鑑賞したのが今回の行事「藤巻の厄神立て」だ。
新屋の鹿島祭りでは鹿島人形を乗せた鹿島舟が町内を巡行したが、厄神立てでも鹿島人形(厄神様)が登場する。
だが、新屋のそれとは鹿島人形の姿かたちが大分に異なっていて、見上げるぐらいに巨大なのが特徴だ。

では「厄神立て」とはどんな行事なのか?
秋田の祭り・行事」によると「夕方、太鼓が打ち鳴らされる中、若者が交代で人形を背負って集落内を練り歩きます。(中略)その後悪疫退散を祈願して水上の村境に人形を立てます。厄除けの武者人形を立てることから厄神立てといいます」といったような行事ではあるが「人形を背負って練り歩く」というのが大きなポイントだ。
同著によると人形の重さ、実に80~100kg!これを担ぐのが一苦労だし、歩くのも難しいはず
集落の厄を祓うとともに、担ぎ手の体力をも試されるまさに一石二鳥(?)の行事なのだ。

夕方に秋田市を出発してお馴染みの出羽グリーンロードを南下、18時に横手市大雄藤巻集落に到着
日中、新屋の鹿島祭りを見たときにはやや暑いぐらいだったが、夕方ともなると涼しくなり、行事を鑑賞するには絶好のコンディションとなった。
近くの中学校に車を置いて、藤巻集落に歩いて向かう。だいぶ陽も傾いてきた。


藤巻は雄物川町と境を接するぐらいの位置にある、旧大雄村西部の小さな集落だ。
管理人の実家、増田町とは同じ横手市に属する地域ではあるが、大雄村と増田では東西の端っこぐらいの感覚なので、以前はあまり来ることがなかった。
旧大雄村絡みで言えば、昨年・今年の2月に長太郎稲荷神社梵天を鑑賞して以来の訪問となる。

集落を少し歩くと八意思兼神社が見えてきた。
この神社、こう書いて「ヤゴコロオモイカネ」神社と読む。
秋田県立図書館で読んだ「大雄村史」によると、以前は藤巻神社、さらに昔は正観音堂と呼ばれていたそうで、その名のとおり御神体は観音様なのだそうだ。
この観音様が公開されることはほとんどないらしい。
そして境内へ入ると‥


出たー、いや!ここにおられました!厄神様
当たり前だが「でかい!」が第一印象
大雄村史によると高さ、幅とも2.6mほどらしい(ただし、同著は20年近く前に書かれたものなので、今は少しサイズが異なると思う。特に幅に関しては2.6mはないように感じた)。
そして重さは先に記したように80~100kgだが、今年のモデルは少々ワラを減らす工夫をして80kgなのだそうだ。

厄神様は当日の午前中に集落の人たちによって神社境内で制作された。
ワラで躯体を作り、別に作った顔、手足をつける。
特に手足はねじり縄を5束揃えて制作されたもので、サイズの大きさもさることながら、手先足先などはなかなかに精巧な作りだ。
裃をつけて、さがりを締めて、顔を書き入れて出来上がりというかんじだ。
また、胸についている2個の桟俵(サンダワラ※米俵のフタ)は人形の紋、へそのあたりの桟俵はまさしくへそを表しているそうだ。

これで鬼の形相とかだったら、ただただ怖いだけの存在だが、手書きで書かれた顔がどことなくユーモラスで何となく親しみを覚えてしまうところが厄神様の特徴だ。
集落の人たち、特に年配の方々が厄神様を前に手を合わせて祈願する姿がよく見られた。
おそらくは集落の安寧を願うとともに「今年の厄神様はどんな具合かねえ?」と出来栄えを楽しみにしていたことだろう。


厄神様の巡行まではまだ時間があるということで、集落の方々数名が境内にいる程度
そんななか嬉しい再会が!
一昨年の大館市山田ジンジョ祭り、今年1月のにかほ市上郷の小正月行事で一緒になったKHB東日本放送「東北の聖地を訪ねて」のスタッフの撮影クルーの皆さんが取材に来られていた。
というか、以前この行事のことをディレクター氏に伝えたところ、興味を持ってくださったようで、わざわざ仙台から駆けつけて今日は午前中の厄神様作りから撮影されていたそうな。遠いところおつかれさまです!
そして、この番組のことを紹介する際に毎度書いているが、秋田でこの番組は放送されていません(残念です!マジで!)

雲の切れ間から夕日が注がれ、厄神様をドラマチックに浮き立たせている。「神々しい」というか、実際神様だし。。。

集落の人たちが集まり出した。

時刻は19時になり、ついに出立の時を迎えた。
この日は風が強く、集落のなかを通らない短縮コースの巡行も検討されたが、例年どおりのコースに決まったようだ。

厄神様を180度回転させて背中合わせになったうえに、紐でくくりつけて背負う。
若い男性がトップバッター。いよっ!一番手!頑張ってくださいね~
これから約1kmの道のりを交替を繰り返しながら歩くわけです。


厄神様を背負う男性は必死の形相だ。
現代の暮らしの中で、これほど巨大なものを背負って運ぶなどということはあり得ない。
これほどの「苦行」がこの地に連綿と受け継がれてきたということが素晴らしい。

最初の男性が神社の境内を出たと思ったら、すぐに次の男性にバトンタッチしてしまった。
傍から見ている以上に重く、過酷なことが分かる。


昨年、NHKで行事の様子が放送されていた。
そのときの内容を思い返してみると、「ムムム‥」と踏ん張って一歩足を前に出してしばらく静止、そしてようやく次の一歩が出たと思ったらまた静止、みたいな印象だったが、実際にはそこまでスローではなかった。軽量化の影響なのだろうか?(軽量つっても80kgあるわけですが。。。)
ちなみに昨年は行事の行われた6月4日は土砂降りの日で(管理人が小坂町の「濁川の虫送り」を見に行った日です。たしかに小坂町も土砂降りでした)、雨を吸ってしまった厄神様はとてつもなく重たかったそうだ。

そしてまた交替
厄神様に先行する軽トラックの荷台にお囃子方が乗車し、「ドドンドドンドドンドドン‥!」と太鼓を乱打
日中に見た新屋の鹿島祭りのような軽やかなお囃子調の太鼓ではなく、担ぎ手の血を沸き立たせるような扇動的な太鼓だ。

担ぎ手と厄神様を束ねる紐がたびたび緩むので、そのたびに締め直す。


背負われた厄神様。「う~ん、楽チン楽チン♪」とご機嫌なようにも見える。
お腹のあたりに付けられたロウソクは電池式。強風のため本物のロウソクを付けるのを控えたそうだ。
たしかに風に煽られたロウソクの炎が厄神様に移った日には大惨事になってしまう。カチカチ山状態だ。

「若い者には負けられん!」年配の方もチャレンジ

KHB東日本放送の若いスタッフの方も挑戦!だが、ただの一歩も進むことなくギブアップ(;_;)
仙台のシティボーイにこの行事は過酷すぎたか!?

集落の男の子も挑戦!!ではなく、背負う形を真似ただけです。
いつかは厄神様を背負う若者の一人としてこの行事に加わって欲しいと思う。

そして陽が沈む。分厚い雲を紫色の陽の光が照らす美しく儚いトワイライトタイム

ところで秋田県内における人形道祖神とその祭りの現況はどんなものだろうか。
4月に湯沢市岩崎で行われる鹿島祭りでは計3地区の鹿島様の衣替え作業が見られることで知られているし、管理人的には横手市大森町上溝の鹿島様はほとんど顔なじみぐらいによく知っている(出羽グリーンロードから見えちゃう訳ですから)。
県南を中心とした独特の文化であることは分かるが、何故県南に多いかということについてはよく分からない。
また、お祭りといっても鹿島様を囲んで踊りを奉納、といったものではないので、その圧倒的な存在感に反比例してあまり知られていない、というのが本当のところだと思う。
鹿島様の種類や分布についてはこちらのサイトに丁寧に書かれている。


厄神様の後方に輝いているのは月とか太陽とかではなく、KHB東日本放送の撮影用ライトだ。
今日は他にも秋田魁新報の記者さんと横手市広報の方が見えられていた。
集落の規模からは想像できないが、その注目度は高いようだ。

大雄村史によると、この行事の発祥は江戸時代にまで遡るが詳しいことは不明なのだそうだ。
ただ長く中断していたのが、伝染病の流行がきっかけとなって明治36年から再開したということは分かっているらしい。
先に紹介したHPに書かれているように県南には同様の人形道祖神が点在しているが、このように背負って運ぶという動作が伴う厄神様は極めて珍しいようだ。
また、大雄村には他に平柳集落で同じような厄神様が作られていたが、背負って運びはしないし、現在では廃れてしまっている。
因みに藤巻の厄神様は「ヤクジョサマ」「ヤクヨケサマ」「ヤクジョウマツリ」などとも呼ばれているらしい。

太鼓の音につられるように家々から出てきた人達が厄神様を祈願
年配の方たちは「ありがでよ~(ありがたいよ~)」と言いながら、本当に嬉しそうに手を合わせている。
この行事が藤巻の人たちの拠り所となっていることがよく分かる。
藤巻は決して戸数の多い集落ではないが、このときばかりはたくさんの人たちが厄神様を取り囲む。


集落内を流れる川沿いを歩く。
つい今しがたまでわずかに夕暮れ時の明るさが残っていたが、今はそれもほとんど失せてしまい、初夏の夜らしく若干肌寒さを感じるぐらいになった。

そしてこのへんで一休みというかんじであるお宅の小屋の前に厄神様を降ろして立てかける。

ここでさらに多くの人たちが厄神様を囲み、祈願を行う。

このときには本物のロウソクに付け替えられる。

集落の人たちにお菓子が配られた。管理人も柿ピーを数個ほどいただいた。スンマセン。。。

そして小休憩が終わり、再出発

あたりはすっかり暗くなった(とは言え、一年のうちで一番昼が長いこの時期なので、まだかろうじて明るさが残っている)。
これから厄神様の設置場所まで残りわずかだが、心なしか担ぎ手の足取りが早くなったようだ。
道沿いに民家がないので祈願を行う人を待つ必要がないこと、集落のなかに比べて道路幅が広くなったことなどがその理由だと思うが、担ぎ手が勘を取り戻したというか、重心をどのあたりに置いて運べばよいかコツを掴んだというのもあると思う。
事実、ちょっと前のめりになりつつもスタスタと足早に歩いて、距離を稼ぐ男性もいて、前半に比べると進むスピードがたしかに早くなった。

そして集落を抜けて大通り(県道13号線)へ出た。
さっきまで厄神様を囲んでいたたくさんの人たちはもうおらず、まさしく一心不乱にゴールを目指すことになる。
ラストスパート!最後のひと踏ん張り!


何台かの車が行列の脇を結構なスピードで通過していった。
夜の暗がりの中、いきなりヘッドライトに照らされて厄神様の巨体が浮かび上がった日には「うわああーっ!!」と叫びながらハンドル操作を誤って電柱に激突!みたいなことがあってもおかしくはないが、当然ながらそんなヘタレな車は一台もなかった。
そんなビビリがいたとしたら、まさしく管理人だ。

そして設置場所へ到着。本当にお疲れ様でした!!!


県道を少し外れた場所に厄神様を設置する。すぐ南は雄物川町薄井地区だ。
(県道を走っていて、ちょっと顔を向けると厄神様を発見できます。googleストリートビューで見るとこんな感じです↓)
因みに北側は管理人が車を止めた中学校の敷地なのだが、厄神様設置場所のすぐ横はテニスコートになっている。
ボールがコートを越えてしまって取りに行こうとしたところ、目の前に巨大な厄神様がいて「キャーーーッ!」とか叫ぶヘタレ部員はまさかいないと思う。

一行みなで厄神様に手を合わせて、あらためて悪疫退散、無病息災を祈願する。

今年の新作(?)厄神様を設置すると同時に、昨年から1年間集落を守ってきた厄神様が設置場所うしろで焼かれる。
お役目ご苦労様でしたm(_ _)m

時刻は20時を過ぎた。
集落の皆さんはこれから直会となるが、本来この行事は田植え後の適当な日を選んで行われたらしいので「さなぶり」としての意味合いが強いように思う。
皆さん、本当にお疲れ様でした!めいっぱい酒を楽しんでください!
KHB東日本放送のクルーの皆さんもお疲れ様でした。またどこかでお会いしましょう。

厄神様の圧倒的な存在感が素晴らしかった。
そして、厄神様を背負って歩き、集落の厄を集めるという風習がきちんと受け継がれていることも素晴らしい。
地元の方々は「(厄神様は)重くて大変だよ~」と苦笑いするが、それでもこの行事に誇りを抱いていることが存分に伝わってきた。
これほどに貴重な行事がごく当たり前に行われるさまに、あらためて県南地方、秋田の伝統文化の奥深さを感じることができた1日だった。


“藤巻の厄神立て” への2件の返信

  1. 凄まじいお祭りですね。全く知りませんでした。80~100kgを背負うなんて、通常では考えられない話ですね。これは一度直接訪れて見てみたいです。
    重要無形民俗文化財に指定されているようなお祭りをメインに見て回ってましたが、観光イベント化が鼻につくようになり、地元の人たちのお祭りに興味が移ってきたところなので、小さなお祭りを紹介して下さるakitafesさんに感謝致します。

    1. 降魔成道さん
      コメントありがとうございます。
      厄神立ては本当に「知る人ぞ知る」行事だと思います。
      100kgになろうかという厄神様を背負って運ぶ、というのは秋田県内のみならず、全国的に見ても希少なはずなので一見の価値ありではないでしょうか。
      行事は毎年6月初旬の日曜日に開催されますので、来年は現地で鑑賞することをオススメします!
      これからも、目立たないながらも素敵な小さなお祭りをどんどん紹介していく予定です。
      激励のお言葉、ありがとうございましたm(_ _)m!!

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