猿倉人形芝居(野中吉田栄楽一座)

2018年8月17日
管理人が毎年楽しみにしている「西馬音内盆踊り」
8月16日~18日の3日間に羽後町西馬音内で10万人以上の観客を集めて行われる秋田県屈指の伝統行事だ。
例年は最終日である18日に訪れているが、今年は中日である17日に行くことにした。
この時期、県内では行事・祭りが立て続けに行われており、この後鑑賞予定の他行事との兼ね合いもあって17日にした訳だが、同じ日に羽後町内で行われる全く別の伝統芸能を鑑賞したいと思ったのが一番の要因だ(平日だったんで有休取りました(^^♪)。

猿倉人形芝居
創始者とされる池田与八、池田の弟子である真坂藤吉、丸田今朝造の3名により明治時代に活動を開始したこの人形芝居は、全国各地を巡業し、たいへんな人気を博した。
その後真坂藤吉の弟子たちに受け継がれて、現在も秋田県内で二座が活動中である。
今年2月に由利本荘市の天寿酒造で木内勇吉一座の公演を鑑賞したのに続き、今回はもう一方の雄である野中吉田栄楽一座を鑑賞
なお「猿倉」は由利本荘市鳥海町にある地名で、真坂藤吉の出身地であることから、猿倉人形芝居と呼ばれるようになったが、かつては「与八人形」とか「秋田人形」とかいろいろな呼ばれ方をしたようだ。

さて8月17日
10時半の上演開始に間に合うように自宅を出発し、会場となる羽後町民話伝承館「むかしがたり館」を目指す。無事に上演15分前に到着

湯沢雄勝地方に伝わる民話や伝統を紹介する拠点としての機能を持つこの会場は、由緒ある猿倉人形芝居の上演にはもってこいで、本日同様の定期公演が1月下旬にも行われる。

中へ入りますと‥

開演まで時間があったので観客がまばらだが、このあとにほぼ満杯になった(満杯といっても30人ぐらいではあったが)。
なお、前回の木内勇吉一座と同じく今回も写真のみの紹介です。

開演時間を迎える。
一座の代表者挨拶ののちに「口上」が始まった。


「東西東西(とざいとうざい)~!」快活な語り口がこれからの盛り上がりを予感させる。
「口上」では観客への御礼と、これからの演目の紹介が行われる。
本日は「岩見重太郎の大蛇退治」と「鑑鉄和尚の手踊り」の2演目が上演されるとのこと。楽しみ!

三番叟


馬乗り三番叟とも呼ばれるスタイル
馬に乗った武士が鈴を持ちながら登場し、その後二人の道化が賑やかに舞台狭しと動き回る。
三番叟には舞台浄めの意味があるそうだ。

野中吉田栄楽一座は現在7名で活動中
あとで伺ったところによると、木内勇吉一座が基本的に1人で人形を操るのに対し、野中吉田栄楽一座は3人で扱うこともあるそうだ。
今日の演目には含まれていないが、「手妻式」と呼ばれる素早い首のすげ替えが見られる「鬼神のお松」では、木内勇吉一座のほうは座布団に首を放り投げるのに対し、野中吉田栄楽一座の方は首を幕に落とす方式となっていて①人形使い ②次に付ける首を渡す係 ③幕を広げる係 といった具合に分業されているらしい。
因みに「手妻」は「手品」の語源ではないか、との説がある。


幕が閉まる直前まで観客に愛嬌をふりまく人形
なお、三番叟と言えばこれまでたびたび取り上げてきた番楽でよく見られる演目だし、歌舞伎などにも存在するようだが、猿倉人形芝居においては口上から始まる幕開けの次に三番叟が演じられることになっており、この順番は必ず守らなければならないそうだ。

最初の段物(←演目のこと)「岩見重太郎の大蛇退治」

主人公「岩見重太郎」が倒れているところから、この段物は始まる。
ストーリーはまさにタイトル通りだが、簡単に紹介すると「空腹のため山奥で死にかけていた岩見重太郎を助けてくれた猟師定七と金平の恩に報いるため、村の生活を脅かす大蛇を退治する」といったかんじだ。

定七に声をかけられて、何とか意識を取り戻した重太郎

優しき定七が介抱のため、重太郎を家に連れて行く。

2月に木内勇吉一座公演では「岩見重太郎の狒々退治」を鑑賞した。
「狒々」と「大蛇」ではディテールが若干違うものの、岩見重太郎がたまたま立ち寄った村でケモノを退治する、というストーリーは全く同じ
会場で配られたパンフレット(全色カラー刷りの立派なパンフです!)によると、この段物は(秋田からそれほど遠くない)仙台で投獄された岩見重太郎が脱獄中の話とされているし、金平がバリバリの秋田弁を使うことからも秋田が舞台と考えてよさそうだが、おそらくはそこまで綿密に設定されたものではないだろう。
因みに岩見重太郎の同じような退治伝説は全国各地に流布しているそうだ。

定七の介抱と、金平の作ったおかゆですっかり生気を取り戻した重太郎
なんとか2人に恩返しをしたいと思っていたところ、2人が村人を苦しめる大蛇の話をしているのを耳にする。

重太郎、定七、金平の3人が同時に舞台へ登場
この部分では人形使いが2人で3体の人形を操っている(1人で操れるのは2体までなので)。
本荘市教育委員会が刊行した「猿倉人形芝居 木内勇吉一座」によると、猿倉人形芝居は人形操法で分類すると「手傀儡(てくぐつ)系の指人形」にあたるそうだ(人形浄瑠璃「文楽」などは手傀儡系の心串人形に該当するらしい)。
そして指人形はさらに「差し込み式」「ハサミ式」の2つに分類され、猿倉は「ハサミ式」(人形首のノド木を、使い手の人さし指と中指の間にハサミ込み、人形の両手は親指と小指にはめこむ ※「猿倉人形芝居 木内勇吉一座」の説明より )タイプとなる。

定七、金平と分かれて重太郎は一人で大蛇を探索する。

そして大蛇が登場!!


重太郎と大蛇がくんずほぐれつの大立ち回りを演じ、それを三味線、太鼓の激しい演奏と甚句(唄)が盛り上げる。
また、お囃子には拍子木の音色も混じっているようだが、拍子木については木内勇吉一座では用いられていないそうで、野中吉田栄楽一座の特徴の一つでもあるそうだ。

明治時代に産声を上げた猿倉人形芝居は明治~大正~昭和初期にかけて隆盛を極める。
最盛期には30にも及ぶ座が活動した時期もあったものの飽和状態になってしまい、戦後になり、TVが登場するとともに急速に廃れてしまう。
今、目の前で披露されているチャンバラシーンなどはかつての子供たちが手に汗握りながら観戦したクライマックスの場面だったと思う。

そして、重太郎が大蛇を成敗

定七と金平が大蛇の亡骸を運ぶ。

これにて「岩見重太郎の大蛇退治」は終了
ベタなストーリーではあるものの、人形の小気味よい躍動感と金平のとぼけた秋田弁を楽しませてもらった。
そして、前回鑑賞した時には何とも思わなかったが、人形の顔立ちがこれまた良い!
例えば人形浄瑠璃で見られるような繊細な顔立ちとは全く違う、顔の各パーツがデフォルメされたちょっとキッチュな感じが独特の世界観を作り出すのに一役買っている。
猿倉人形芝居と他の(秋田県内の)伝統芸能を大きく隔てる部分があるとすれば、猿倉は「まずは興行ありき」だった点だと思う。
村から村へと移動し、そしてお呼びがかかれば大都市へも出かけてたくさんの観客の前で芝居を披露する。
そのためには純和風然とした人形ではなく、少しでも観客にアピールできる人形とアクションが必要だったのだろう。
そして観客を笑わせ、楽しませ、ときには泣かせて(以前は人情ものも上演されていたらしい)、たくさんの興行収入を得る。
生活の糧としての必然がこの人形芝居を形作っていたともいえよう。

続いて「鑑鉄和尚の手踊り」

こちらは木内勇吉一座のほうで一度鑑賞した演目だ。
お堅い職業であるはずのお坊さんが、若い娘の色香に惑わされるというストーリーは一応あるものの、一番の見所は終盤の手踊り、傘踊りの盛り上がりだ。
なお本来は「鉄を貫くほどの強固な意思を持つ僧侶」が登場するため、お坊さんの名前は「貫鉄」だったらしいが、いつからか「鑑鉄」になったらしい。詳しいストーリーについては、木内勇吉一座の記事に記しているので省略します。

スケベな坊さん、いや鑑鉄が登場

虚無僧のような出で立ちでかっこいい。
顔が隠されているというのはこれほどまでに男を引き立てるものなのか。

早速娘が近づいてきて鑑鉄にベタベタし始める。


スケベ顔の鑑鉄。ニヤニヤした表情とテカリ顔がスケベさを増幅させている。
詳しくは分からないが、虚無僧とはもともとは侍の身分だった者が僧侶となった際の姿なのだそうだ。
その点を踏まえると、このしまりのないニヤケ顔はいかがなものか。
こんな男がかつては刀を差して威張り散らしていたというのか。

鑑鉄と娘のやり取りが続く。


先ほどの「岩見重太郎の大蛇退治」が古来からの伝承物をアレンジした脚本だったのに対し、「鑑鉄~」はこの人形芝居のために創作された作品ということになっている。
独自に始めた人形芝居に文楽の要素をミックスし、猿倉の基礎を築いた池田与八を軸に、三味線の名手で美声の持ち主でもある真坂藤吉、物語の創作に才能を注いだ丸田今朝造の3人は無敵のトライアングルだったらしく、このメンツがいたからこそ猿倉がたくさんの観客を集め、広く知られるに至った訳だ。
これほどに個々人の力量に支えられた芸能文化も珍しいし、その点においてもたしかに異色だ。
その後、3人はそれぞれに分かれて活動を続けることになる。

鑑鉄と娘が踊り出す。


お互いに気のある素振りの男女が踊り狂う、というのはズバリ性の営みのメタファーだと思うが、どうなのだろう。
因みにかつては男性客を喜ばせるだめに、結構露骨な性描写もあったが、木内勇吉が小学校などでも上演できるようにと、そのようなシーンを排除したそうだ。
ただし、それは道徳的側面ばかりではなく、興行先の確保というやむにやまれぬ事情もあったようだ。
木内勇吉の自伝「楽屋裏からの世間史 猿倉人形遣い独り語り」を読むと、一座が興行先で揉め事に巻き込まれたり、仲間内での裏切りにあったり、はたまた警察官と乱闘騒ぎを起こしたりと波乱万丈のエピソードが満載だったが、それでもなお生きる術としての人形芝居巡業が必要だったことがうかがい知ることができる。

傘踊りへと移行


キタサカサッサー!の掛け声の入る軽快な人形甚句をBGMに2体の人形が躍動する。
パンフレットには「吉田勝若(※真坂藤吉のこと)の、名人芸でならした演目の一つ」と紹介されている。
真坂藤吉は37歳のときに、巡業先の羽後町三輪村野中 鈴木家の女性と結婚し、以降羽後町を拠点に活動を継続するものの太平洋戦争中に病没し、一座は一時解散の憂き目を見る。
戦争が終わり、人々の生活に僅かながらの余裕が生じるとともに人形芝居復興の機運が高まり、藤吉の三男にあたる「吉田栄楽(鈴木栄太郎)」が中心となり、活動を再開するに至った。
座は「吉田栄楽一座」を名乗り(初代座長は真坂藤吉とされている)、現在は三代目 吉田倉若(菅原倉治氏)を座長として活動している訳だ。
あいにく本日は吉田倉若に代わって、座長代理の方が座を取り仕切ることになったが、人形芝居発展の功労者 真坂藤吉から受け継がれた至高の芸が今日も披露されたということになる。

鑑鉄のあたまのうえに傘が!


この曲芸的な動きが「鑑鉄~」のクライマックスとなっている。
傘踊りの前に傘を2体の人形が投げ渡し合ったり、銅鑼鉦を叩いて踊りまわったりと、この場面の所作にもいろんなバリエーションがあるようで、そこは座によって違うのかもしれない。
また、吉田栄楽一座の人形の方が、木内勇吉一座よりも一回り小さく、吉田栄楽一座のほうが猿倉人形芝居の元初の姿を色濃く残しているらしい。

「鑑鉄~」が終わり、これで全演目が終了
人形の使い手、お囃子方へ惜しみない拍手が送られた。とてもよかったです!(パチパチ!)

最後に演者の皆さんが観客に挨拶

いちばん左に写っている「吉田文栄」こと中川文子さんのご紹介によると、座員7名の中にはわざわざ東京から故郷羽後町に戻り、人形芝居の継承に努めている方もいるそうだ。
そして、岩見重太郎の大蛇退治で人形使いデビューも果たされたとのこと。これからも頑張ってください!!
終演後に中川さんと少し話をさせていただいた。
とてもパワフルで元気な方であるとともに、羽後町の人たちを長く楽しませてきた、この伝統文化をしっかりと受け継いで次の世代に繋いでいきたい、との思いが十二分に伝わってきて、とても清々しい気持ちになれた。
また、昨年の1月公演の様子を収めたDVDまで頂戴してしまった。ありがとうございますm(_ _)m

1時間弱の時間ではあったが、楽しい人形芝居を鑑賞できた(因みに本日は羽後町内において野中吉田栄楽一座公演以外にも、西馬音内盆踊り、そして仙道番楽公演と異なる3つの伝統行事・芸能が行われた、かなり珍しい日でもあった)。
先に書いたように、猿倉人形芝居はTVの登場とともに廃れることとなるが、昭和49年に県無形民俗文化財指定を受けたことで大衆芸能から伝統文化へと変わっていった。
おそらく大部分の秋田県民が生で猿倉を鑑賞したことはないと思うが、その昔私たちの先祖を大いに楽しませた人形芝居の真の姿を見られるのが今日のような機会なのだ。
その姿は無形民俗文化財となった今でも大衆芸能のままであり、思わず笑ったり興奮させられたりと往時と何も変わるものではない。
年2回の定期公演以外にも、今後各種イベントに出演予定もあるということで、決して大観客を前に行われる伝統芸能ではないもの、着実に活動している様子には思わず応援したくなってしまう何かがある。
是非たくさんの人に見て欲しいと思う。


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