田子内盆踊り2019

2019年8月13日
待ちに待っていた盆踊りシーズンがやってきた。
お盆に帰ってきた先祖の霊魂を迎え、そして送るために8月中旬のこの時期に集中的に行われる、日本古来の行事だ。
我が秋田県にも日本三大盆踊りならぬ、秋田県三大盆踊りがあるほどに盛んな行事でもあるし、管理人も数ある伝統行事のなかで特にお気に入りで、今年はどの盆踊りを見ようかなどと毎年カレンダーとにらめっこするのが習慣となっている。
そんなワケで今回お邪魔したのは東成瀬村の「田子内盆踊り」。一昨年に続いて2度目の訪問となる。

迎え盆当日となる8月13日 - この日は仕事を早上がりして、横手市増田町の実家へ行って盆の支度を手伝った。
宵のうちに墓参りとお寺参りを済ませたのちに、実家から車で20分ほどの東成瀬村田子内へと向かう。
会場となる永伝寺は東成瀬村役場からすぐの場所にあって、盆踊りはそこの境内で踊られる。
近くに車を止めて会場へ進んでいると、他に浴衣姿の男性と女性も同じようにお寺へと向かっているのが見えた。
そのお2人と距離が近づいたので何気なく顔を見ると‥おや、ふじけんさん!?
東京在住でありながら、秋田の盆踊りをいたく気に入られていて、このシーズンは県南~県央~県北と秋田の盆踊り行脚に明け暮れ、他にも青森や岩手にも足を伸ばして現地の人と寸分相違ない踊りを見せる盆踊りマスターだ。
管理人がふじけんさんに初めて出会ったのは4年前、我が地元増田の盆踊り会場においてだった。そして2年前ここ田子内でお会いして「あの~、何年か前に増田の盆踊りで踊られてませんでした?」と管理人から声をかけて以来の知り合いだ。
度々このブログにも書き込みをいただいていて、今年も例年同様にお連れの方と一緒に秋田へとお越しになった訳だ。
お寺の正門前でしばらくふじけんさんと立ち話をしたのち、境内へと入る。ふじけんさん、今年も優雅な踊り期待しております!

境内はこんなかんじです。


多くの観客がお喋りしたり、ビールを飲んだり、金魚すくいをしたり思い思いに過ごしている。
すでにお囃子の櫓が組まれていて太鼓もスタンバイ済み。すぐにでも踊りが始まりそうだが、その雰囲気はない。

と思っていると、いつの間にかお囃子方がスタンバイしていて、ふらっと演奏を始めた。

「ふらっと演奏を始めた」などと書いたが、このあたりの盆踊りは通常踊り手に集合をかける「寄せ太鼓」から始まることが多いので、おそらくは管理人が気づかなかっただけで、実は寄せ太鼓が演奏されていたのだろう。
また、お囃子方の小学生ぐらいの男の子が「ワラセダ、あづまれー!」(←「童たち集まれ」の意味。自分もじゅうぶんワラセダの一人だよ、というツッコミどころはあるものの)と子供たちへ参加を促したりもしていた。

お囃子に誘われるように2人の女性が踊り始める。


「東成瀬村史」にごく簡単ではあるが、盆踊りについての記述があるので全文を記したい。
「田子内盆踊りは、いつの頃からはじめられたかは定かでないが、西馬音内の盆踊りによく類似している。全部で五つ振り(五番)からなっていた。大正時代に一時すたれたが昭和の初期ごろ当時の田子内青年会(会長土井成雄、副会長小島貞)が復興に力を入れ、東成瀬小学校小学校体操場で練習会を開催した。その成果を永伝寺境内で大々的に披露したものだった。当時は娯楽とてなかったため、岩井川はじめ村内は勿論、遠く西成瀬方面からも参観者がきた。現在は、田子内の親子会が伝承しお盆にお寺の境内で踊っているが、それを田子内踊りのすべてと思っている人も多い。残りの四振りを知っている人は殆どおらない」

これから踊りの輪が広がっていくものかと思っていたら、お囃子方があっさりと演奏を中断。これはどうしたことか‥

これから仙人山のほうから花火があがるぞ~とのアナウンス、場内が暗転に包まれると同時に花火が上がった。
2年前に見たときは暗転にはならなかったので演出を変えたのだろう。


お盆の夜空を彩る花火が数発上がる。
それはいいとして「哀愁のヨーロッパ」を思わせる前時代的なギターサウンドのBGMには思わず笑ってしまった。令和という新時代を迎えたというのに、このチョイスはスゴい。
あとで調べたらハードロックギタリスト、ゲイリー・ムーアの「The Prophet」という曲だった。

再び場内が明るくなり、いよいよ本格的に踊りが始まる。

お囃子方も演奏再開。っていうか左の青年、スマホいじってねーか?大丈夫か!


東成瀬村史には「西馬音内の盆踊りによく類似している」と書いているものの、振りについてはそれほど似ていない。
両腕で円を書くようにして背中を丸める所作や、手のひらを上に向けて腕を上げる所作などは結構独特だ。
また、衣装については浴衣の人もいれば、普通のカッコの人もいてバラバラだが、「秋田の祭り・行事」には「地蔵尊に因んで赤い着物で踊っていましたが、今は浴衣姿が多くなりました」と書かれていて、調べたところお地蔵さんの赤いよだれかけには子供の成長を祈願し、赤い色には魔除けとして子供を守る意味があるらしい。
お寺の境内で踊られていることと、もともと赤い着物が揃いの衣装だったことには関連がありそうだ。

踊り手の輪が大きくなってきた。


様々な地口が披露される。
地口の種類は数限りないし、県立図書館で借りた「秋田音頭ものがたり」に相当数の地口例が載っていたのでざっと読んでみたが、そこには書いていないような地口が多数披露されていた。
♪おら家の父さん 頭はワリども 体は医者いらず
   産婆に聞いたら 頭がカラだ 医者に見せだほうええ
♪隣の婆さま 畑でヘビに ばったり出くわした
   どでんビックリ 入れ歯外れて 開いた口ふさがらね
また、最近できたと思われるような地口、田子内でしか歌われていないような地口も少し含まれていた。
♪たまげたタマコ 呆れたアキコ 困ったお二人さん
   肥満に不満 メタボなホタボ 痩せたい所がほとんどだ
♪マッチ一本 火事のもと 願いは火災ゼロ
   地域の防災 しっかり頼むぞ 田子内(たごね)の消防団
各地の盆踊りに出かけると、個性豊かな歌い手によるその地ならではの地口を聞くことができる。
おそらく一般的によく知られている地口に地元で受け継がれてきた地口を加え、さらに歌い手の創作地口をほどよくブレンドしてレパートリーを構成しているのだと思うが、それにしても次から次へとよく途切れずに続けられるものだといつも感心する。

完全に馴染むふじけんさん


これまで記事にしてきた県南の盆踊りのことをたびたび「サイサイ系」なる呼び名で括らせてもらってきたが、実はいろいろ調べてもサイサイ系の定義や歴史がよく分からないでいる。
盆踊りに限らず、例えば浅舞の山車行事や県南各地の鹿島まつりで見られる移動式の太鼓屋台のことを「サイサイ囃子」と呼ぶことは分かるが、「系」とつく以上はある共通性を持ったグループのことを指すのだと思う。が、その定義がよく分かりません。
サイサイ囃子が登場する盆踊りのことを言うのであれば、田子内や西馬音内などはその系統から外れるし(移動しないですし)、かといって、サイサイ囃子が登場する「横手の送り盆行事」をサイサイ系と呼ぶのは何だか違う気がする。
もともと「サイサイ」という語は角館に生まれた仙北甚句を起源とする秋田甚句の歌詞から取られたものであり、秋田甚句のことを「サイサイ節」などとも呼んでいたそうだが、「サイサイ」というのが楽曲名なのか、お囃子の形態のことを指すのか、そのあたりもよく分からない。
秋田の伝統芸能や民謡に通じていて、このへんの解説ができるという方、是非管理人に教えてくだされ。

生演奏が一旦終わって、音源に合わせての踊りへと切り替わる。


2年前も聞いたのでこの曲には聞き覚えがあった。
あとで調べたところ、吉幾三の「民謡(うた)はふるさと」という曲だった。
ここぞとばかりにお囃子方も踊りへ参加、田子内盆踊りの際には盆踊りの輪にいなかった人たちも加わって踊り始める。
東成瀬村史に書いているように、かつては5つの振りがあったものの、いまでは1つの振りを残して全て廃れてしまったということであり、現在は田子内盆踊り(正式名は「音頭」?)と「民謡はふるさと」の2つで構成されている。

花よみが行われた。

境内を出て、再び正門を撮影
東成瀬村といえば8月に行われる仙人修行が名物だ。
3日に渡ってお寺にこもって修行に打ち込み、最後は滝行を行って心身を清めるストイックさがウケて、今や県外からの参加者もかなり多いようだが、初日に開講式を行うのがここ永伝寺となっている。

花よみのあと、もう一度「民謡はふるさと」が踊られ、その後田子内盆踊りへと移行。一昨年鑑賞時に途中から貫禄の登場を果たした「お師匠さん」も会場に来られて輪に加わりました。


地元の方や帰省客、さらにはふじけんさんのように県外からの踊り手も加わり、踊りが続けられる。
祖先を迎えるために踊るとされる盆踊りだが、こうしてみると隣近所の人たちとの交流であったり、懐かしい友との再会であったり、人々のコミュニケーションの場でもあることが分かる。
かつて貧しかった時代には、盆踊りがつらい労働のはけ口として存在していたし、明治~大正時代にかけては風紀を乱すという理由で取り締まりの対象とされたときもあった。
オールドウェイブと見なされがちな伝統行事ではあるが、その時代の人々の想いや空気に寄り添いながら継承されてきたとも言えるのではないだろうか。

踊りも終盤。特に熱を帯びるでもなく、淡々と踊りが続けられる。


県南には数々盆踊りがあるものの、不思議と管理人の住んでいる秋田市内で(昔ながらの)盆踊りが踊られているところは少ない。
かつては新屋、将軍野など様々な場所で踊られていたというし、今でも町内会夏祭りといったイベントでは踊られることもあると思うが、いにしえの形を残したまま継承されている盆踊りは少ないはずだ。
田子内の盆踊りはもともと会津地方から移住した一族が伝えたらしいが、外部から入ってきた踊りであってもその地の人々が踊り親しみ、大切に受け継がれて現在に至っているのだろう。
盆踊りが続けられ、今も残っているということは、踊りの振りが美しいとかお囃子が独特とかいった要素も然ることながら、その地の人々に愛されているかどうかなのだと思う。

お囃子方、踊り手ともに楽しそう。


お寺の境内での踊りにもかかわらず、歌い手は時折きわどい地口を披露して観客を笑わせてくれる。
もともと盆踊りは世の安寧を願う僧侶たちが、庶民に「南無阿弥陀仏」と唱えながら踊ることで極楽浄土へ行けると説いた、仏教由来の行事である。
それが念仏踊りというジャンルへと昇華され、さらに庶民の娯楽として風流化が進み、現在見られるような盆踊りへと変化したものだ。
本阿弥書店発行の「民謡地図9 盆踊り唄~踊り念仏から阿波踊りまで」には著者 竹内勉氏が極楽へ行くための踊りが次第に娯楽性を帯びたものへと変わっていった理由として「多分、盆踊りの先導者・音頭取りが、僧侶やそれに準ずる人たちから、仏教と無縁ではあるが、大衆・踊り手たちから人気を集める、いわゆる音頭取りにと、替わっていったためではないかと、私は思っている」と記している。
田子内の盆踊りを見ながら、極楽浄土思想という、俗世から遠ざかる志向を持っていたはずの盆踊りが、俗世ど真ん中である大衆の娯楽として人気を集める、その極端な振り幅が盆踊りの魅力の一つなのかも、などと思ってみたりした。

そして21時半近く、踊りは終わりを迎えた。

人々は家路に急ぎ、管理人もふじけんさんとお連れの方との再会を約束し(実際この数日後にお会いすることになります)、永伝寺をあとにして増田の実家へ帰った。
実家では「すぐに帰るよ」などと言っておきながら、結局最後まで盆踊りを見届けた管理人の帰りを待ちかねたようで、父親がすでにビールで酔いつぶれていた。

今年の盆踊り鑑賞を無事(?)にスタートできた。
特に2年前と大きく変わった点はなかったものの、地口の面白さとバリエーションの豊かさをあらためて実感できた。
この後数日のあいだに県南の盆踊りを2つほど鑑賞したのだが、そこでもかなりオリジナリティ溢れる地口が披露されていて、型通りの振りや所作が重んじられる盆踊り行事の中にあって、その猥雑さとエネルギッシュさはかなり異質で面白い存在だ。
これからの盆踊り鑑賞に向けて、また一つ新しい楽しみを見出すことができた思いだ。


“田子内盆踊り2019” への2件の返信

  1. いつも現地でのお話しや資料調査した文章、多くの画像等、読み応えのある投稿をありがとうございます。
    また、全く他所の衆の私達を温かく迎えてくれる地元の方には感謝しております。
    何とかあとの4つの踊りを復活させたいですね。

    1. ふじけんさん
      コメントありがとうございます!
      その節は素敵な踊りを見せていただきありがとうございました。
      田子内の失われた4つの振り。実に気になります。
      復活は難しいにしても、その痕跡はどこかに残っていないんでしょうかね?
      今は無くなった踊りに、個人的に興味がそそられるところもありますので、このブログでできるだけフォローしていきたいです!

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