大森歌舞伎

2017年7月17日
「地歌舞伎(じかぶき)」のことはご存知だろうか?
歌舞伎と聞くと普通一般に想像するのは大歌舞伎だと思うが(海老蔵とか片岡愛之助、市川染五郎とかが演ってる、いわゆる「歌舞伎」です)、今回取り上げるのは「地歌舞伎」
何が違うのかといえば大歌舞伎はプロが演じて、地歌舞伎は地元のアマチュアによるものだという点だ。
で、秋田にも2つの地歌舞伎が現存しており、1つは三種町の森岳歌舞伎、もう1つが今回取り上げたにかほ市の大森歌舞伎ということになる。

アマチュアによるお芝居と聞くと、学芸会とか市民劇団とかいうイメージが浮かぶと思うが、全国的に見ると岐阜県には実に29にものぼる地歌舞伎団体があるらしいし、長野県大鹿村の大鹿歌舞伎は映画の題材にもなっていることから分かるように、決して廃れかけている行事ではない。
東北にも、福島県檜枝岐(ひのえまた)村の檜枝岐歌舞伎という全国的に名前の知られている地歌舞伎がある。
地元の人たちや、根強いファンに支えられた結構ポピュラーな芸能なのだ。
また、演目の中身もさることながら、舞台となる芝居小屋の素晴らしさにも注目が集まっており、芝居小屋巡りをテーマとする本も結構出版されている。
地歌舞伎の基本については、こちらのサイトがたいへんわかり易かった。

さて、大森歌舞伎である。
上演会場はにかほ市象潟町の大森神明社であり、例祭(毎年7月の海の日)の折に歌舞伎が演じられるのである。
神社に様々な伝統芸能が奉納されるのはよく見られるが、歌舞伎奉納というのは本当に珍しいと思う。
秋田の祭り・行事」を読むと朝9時半から行事(歌舞伎上演?)が始まるという。
ということで、当日は8時半に秋田市の自宅を出発する。
日沿道を使い、象潟ICで下りると1時間10分ほどで大森神明社へ到着
大森神明社のある横森大森集落は鳥海山の麓と言ってよいほどの集落だが、日沿道延伸のおかげでずいぶん近く感じられる。
集落の入口には大森歌舞伎をテーマにした交通安全の看板が掲げられている。

集落の様子

神社前で行事の関係者と思しき方がいたので、タイムテーブルを尋ねてみる。
最初は獅子舞の奉納から始まり、歌舞伎が演じられるのは10時半頃かららしい。
へっ?獅子舞?初耳ですわ、そのようなものまで見られるとは
歌舞伎と獅子舞。面白い取合せだ。
こちらが大森神明社

曇り空とは言え、7月中旬のこの時期が暑くないはずがない。
が、神社の中は涼しくたいへん快適なのだった。

これが大森神明社
中では神事が執り行われているっぽい。

境内には20~30人ほどの観客がいた。
地元のお年寄りやお父さん、お母さん、子供たち、4~5名ほどのカメラマン、にかほ市教育委員会文化財保護課の記録保存係の方々(←おそらく。間違っていたらすいません)に混じって、福島県郡山市の日本大学工学部建築学科の3人の男子学生さんが研究の一環として見物に来られていた。
建築学の観点から、こういった地歌舞伎で使われる芝居小屋の研究をされているのだそうだ。
郡山市から、ここ大森神明社まで距離にして300km以上!その熱意、素敵です。

そして神事が終わると、大森代々神楽の奉納が始まる。


二人立ち一頭獅子で、獅子頭の前をササラ振りが歩く。
5月に由利本荘市石脇で鑑賞した石脇神楽と同じ大神楽(伊勢信仰を元にしている)の系統であろう。
本殿内の右側奥に「伊勢神宮‥」と書かれた旗が飾られているのが分かる。
動画には、御幣の段から鈴の段へ移行した場面が映っている。

お囃子の調子が変わり、テンポも早くなる。
それに呼応して、獅子の舞も熱を帯びてくる。
徐々に舞がエンディングに向かっているのがわかる。

通常は「太々神楽」という漢字を当てて「だいだいかぐら」と読ませるが、ここでの表記は「代々神楽」
んー、どういう違いがあるのだろうか?全く分からない。

踊り終えた人たち、ササラ振りが獅子頭を奉納して舞は終了となる。

続いては歌舞伎の上演である。
先ほどから芝居小屋云々、とかいろいろ書いておいて恐縮だが、大森歌舞伎には芝居小屋にあたる建物はない。
神社本殿右奥の自然の地形をそのまま舞台として活用することとなる。
写真右側のスペースが舞台で、左側に見える小道が花道ということになろう。

この上演スペースは少し低いところにあるので、観客は見下ろす格好になる。

管理人含むカメラ部隊は少しでも役者に近いところに‥ということで、お囃子方のすぐ真横に陣取った。

気になる演目だが「仮名手本忠臣蔵」五段目の山崎街道の一場面、これ一本だ。
「何故五段目が演目に選ばれているのか?」をお囃子方の男性に尋ねたところ、「時間が短いのがいいんでない?」との返答
んーーー、あまりにシンプルすぎるが妙に納得のいく答えだ。
管理人的には「忠臣蔵」と言えば年末の民放大型時代劇、とかそんなイメージだが、古くから人形浄瑠璃や歌舞伎の演目のモデルとなっている。
史実に大幅な脚色を施し、勧善懲悪の結末を願う市井の人々の期待に沿うストーリー展開となっているのが特徴だ。
仮名手本忠臣蔵は1~11段目まであるが、詳しいストーリーはこちらでご覧いただきたい。
また、五段目ということでいえば、八郎潟町の願人踊りで踊りの合間に披露される芝居も、五段目の同じ場面である。

役者の登場を固唾を呑んで見守る観客たち。いや固唾は呑んでいない、皆リラックスしまくっている。

そして開演
まずは舞台に老人「与市兵衛」が入ってくる。

与市兵衛は娘婿の早野勘平のために、娘であるお軽を身売りして五十両を工面した帰り道
あたりは夜闇で真っ暗、しかも雨降りという設定だ。

そこに、与市兵衛が持っている五十両を狙う悪党「斧 定九郎」が登場

何とか五十両をせしめたい定九郎は言葉巧みに与市兵衛に懐のものを出させようとするが、与市兵衛はその企みに乗ってこない。
業を煮やした定九郎は病気のふりをしてその場にうずくまる。


管理人はこれが初の歌舞伎鑑賞となる。
NHK教育テレビなどで歌舞伎公演の様子が放送されていても、すぐにチャンネルを変えてしまう口だ。
で、初めての鑑賞で思ったのが、想像以上にお囃子方の鳴り物が効果的だということだ。
三味線の「ドロ~ン」という音色(爪弾いているのか?)はこれから何が起こるかを暗示させるかの如く意味深い響きだし、拍子木の「カンッ!カンッ!カンッ!」にはドキッとさせられてしまう。
典型的な古典芸能であり、全てが予定調和の世界だと思っていた歌舞伎のお囃子にこれほどまでに揺さぶられてしまうのか、と我ながらビックリした次第だ。

そして定九郎は悪党の本性を表す。
力ずくで与市兵衛の懐から財布を奪い取ろうとしてもみ合いが始まる。

与市兵衛もただやられるだけではない。杖を武器に定九郎と対決する。
観客から「頑張れー!」と声援が送られる。

が、やはり老体ゆえの限界か。
あえなく与市兵衛は定九郎に刺し殺されてしまう。
雨の夜道で老人が殺される、とかかなり陰惨なシーンだが、2人のもみ合いに観客から笑いが起こるのだった。

与市兵衛を討ち、大見得を切る定九郎

悪党定九郎は仮名手本忠臣蔵では、この場面にしか出てこない。
が、それにもかかわらず、かならず一座の二枚目花形役者が演じる決まりになっているのだそうだ。
服部幸雄さんという方の著書「歌舞伎歳時記」を読むと、「五十日の熊鬘(くまかずら)、黒羽二重の献上の帯、朱鞘の大小、白塗りの顔、袖まくりした手、尻はしょりして出した足も真っ白」という風体が基本らしい。
要するに悪の華、ダーティーヒーロー的なカッコよさを象徴する役柄なのだ。
そう言った意味では現代的な役柄であり、男たちの憧れるアウトロー像を体現していると言えよう。

荒っぽいやり方で五十両を強奪した定九郎だったが、猪狩りをしていた早野勘平が放った銃弾が定九郎に命中
定九郎もあえなく死んでしまった。
与市兵衛登場から始まるここまでの場面は、「パンッ!パンッ!」と2発の銃声が鳴り響くシーンがあることから、五段目「二つ玉」と呼ばれている。
因みに本物の銃ではないにせよ、どうやら火薬を用いて銃声を表現しているらしく、あたりに火薬の匂いが広がっていた。


与市兵衛、定九郎両名の非業の死を以て終演となる。
上演時間は15分
たしかにお囃子方の男性が仰っていたように、そのコンパクトさがほど良く、十分に楽しむことができた。

熱演を終えたお2人の写真を撮らせてもらった。
楽しいお芝居を見させてもらいました、ありがとうございます!!


今日は大森神明社例祭なのでこの後直会があるはずだが、観客たちは一斉に帰路に着き、管理人も神社をあとにしたのだった。
それにしても日大工学部建築学科の3人の学生さんたち、僅か15分の芝居のために300kmを超える距離を車で駆けつけてきたのか‥(しかも建築学科の研究なのに芝居小屋はないし。。。)本当に頭が下がります!

ということで大森歌舞伎
もっとたくさんの人に認知されてもよいのでは?と率直に思った。
歌舞伎ファンがどれほどいるのかは知らないが、歌舞伎を知らずとも、台詞回し、大立ち回り、お囃子方の演奏、どれを取っても十分に楽しめる内容だった。
ストーリーのわかり易さと、繰り返しになるが上演時間15分というキャッチーさが、万人に受け入れられそうな要素を持っているのだ。
ちょっとしたハプニングもご愛嬌ということで、観客みんなで笑い飛ばせる空気感が心地よい。
そして、自然そのままの舞台
このように自然の造形をそのまま芝居の舞台として活用する、とはどういうことなのだろう。
日大の学生さんのお1人から「歌舞伎は風紀風俗を乱すという理由で取締りの対象となっていた過去を持っています。ですが、どうしても歌舞伎を鑑賞したい農民たちは神社への奉納行事という形で歌舞伎を細々と上演し続けてきたんです」と教えていただいた。
この大森歌舞伎は発祥が定かでなく、おそらく江戸時代頃から受け継がれてきたと云われている。
芝居小屋はないが、鳥海山の麓の小さな集落の農民たちに憩いと楽しみを与え続けてきたのが、あの神社横の林の中の小さな一画なのである。
先人たちの大森歌舞伎への思いが、あの木々に囲まれ、土でできた舞台に寄せられていたのだと思うと何だか泣けてきそうだ。
面白さと、楽しさと、そしてほんの少しのノスタルジックさを湛えた稀有な伝統芸能
是非これからも続けていってほしいし、よりたくさんの人に見て欲しいと思う。


“大森歌舞伎” への2件の返信

  1. 忠臣蔵?と言うよりも、石川五右衛門?。
    『浜の真砂は尽きぬとも〜!世に盗人の、種は尽きまじ〜‼️』、、、(笑)
    すみません、一生懸命取材いただいたのに、ロクなコメント出来ません、、、酔ってます。

    1. 隣人1号さん
      いつもありがとうございます!
      石川五右衛門!たしかにそのようにも見えますね。
      定九郎の顔の白粉がそう思わせるんでしょうかね?
      因みに白い顔の口元から鮮血が流れる、そのコントラストがちょっと綺麗でした(苦笑)
      お酒はほどほどがよろしいかと。。。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA