森岳歌舞伎

2018年9月16日
日中に鑑賞した本荘八幡神社祭典に続いて、本日二つ目の行事「森岳歌舞伎」
毎年敬老の日前日に三種町(旧山本町)森岳で開催の「伝統芸能の祭典 in みたね」で披露される、にかほ市象潟「大森歌舞伎」と並んで県内に2つ残存する地歌舞伎のひとつである。
伝統芸能の祭典 in みたねは、11:30~三種町山本ふるさと文化館で昼の部、18:00~三種町農村歌舞伎会館で夜の部の2回に分けて行われ、今回は夜の部を鑑賞するわけだ。

15時半に本荘八幡神社祭典の鑑賞を終えてから一旦帰宅。17時に三種町森岳に向けて再び家を出発し、国道7号線をしばし北上。日が暮れて薄闇へと変わるなか、18時半に会場に到着。付近に車を止めて農村歌舞伎会館へ向かう間じゅう、秋田音頭が鳴り響いていた。
あとでプログラムを確認したところ、森岳通り音頭が披露されていたようで、その際の演奏のようだった。


飲み物や食べ物の販売スタッフのみなさんはお揃いのTシャツを着ていた(←非売品らしいです)。
抽象的な言い方でちょっとあれだが、管理人が思っていた以上にスタッフの皆さんの熱意がすごく、会場全体の熱量も高い。
森岳といえばじゅんさいや、森岳温泉とかそんなイメージが強かったが、実は歌舞伎推しの地域でもあるようで、このかんじは現地に行かずしては分からない。結構びっくりだ。

観客用に100席(ぐらいだと思う)ほどの椅子が用意されていたのだが、すでに満杯。立ち見客の数も多い。

会場で配られたプログラムを見ると、今日行われた昼の部ではこの後登場する森岳子ども歌舞伎が1回目の公演を行ったほか、ささら上映会、じゅんさい音頭、4つの番楽団体公演が行われたようだ。
また、幕間で三種町方言劇同好会がネタを披露したり、森岳小学校児童が考案した森岳歌舞伎弁当が販売されたりと、笑いあり食ありのさぞかし楽しい舞台となったのだろう。

こちらは森岳神社社殿。たくさんの観客が鈴なりになっていた。

今日は森岳八幡神社例祭の日にあたり、これから上演される森岳歌舞伎は奉納歌舞伎ということになる。
にかほ市の大森歌舞伎も同じく奉納歌舞伎であり、歌舞伎上演が好ましくないとの理由で取締り対象になった折、神社への奉納という形をとって取締りを逃れて続けられたというような話を現地でお聞きした。
森岳歌舞伎も同じような経緯をたどってきたのだろうか。
因みに、森岳は近年1度途絶えかけたのだが、伝統を火を絶やすまいと立ち上がった有志の皆さんの尽力により、平成3年8月に保存会が結成されて現在に至っている。

さて、保存会会長の挨拶に続いて「森岳子ども歌舞伎」が早速登場。先に書いたように昼の部に続いて2度目のお目見えとなる。演じるのは「青砥稿花紅彩画(通称:白浪五人男)」の「稲瀬川勢揃いの場」


演じるのは森岳小学校歌舞伎クラブの子たち
会場で配布された後援会報によると、歌舞伎クラブは保存会の声がけではなく、地域総合学習についての話し合いが元となり、数年前に発足したそうで、県内では唯一学習活動に歌舞伎の習得を取り入れているとのこと。衣装、小道具も本格的で素晴らしい。
「稲瀬川勢揃いの場」は5人の盗賊たちが名乗りをあげるシーンで有名らしいが、5人の着物の柄はちょっとずつ違うのが特徴で、その点もちゃんと踏まえて衣装が仕立てられていた。

青を基調とした着物姿がカッコイイ。


県立図書館で借りた「役者が分かる!演目が分かる!歌舞伎入門」に白波五人男 稲瀬川勢揃いの場の解説が記載されているので抜粋すると「《稲瀬川勢揃いの場》では、花道に五人の素性や性格を唄った〈下座音楽〉で登場。弁天を先頭に、五人目の駄右衛門が出てくるまで、四人は桟敷に向いていて、全員揃ったところで、くるりと一斉に中央に向き直るのが見せ場。派手な衣装で、「志ら浪」の文字が入った番傘という伊達姿。本舞台での(中略)五人の名調子を堪能したい」ということだ。白浪とは盗賊のことを指す。
管理人は歌舞伎についてはほとんど知らないが、盗賊五人衆の目の覚めるような鮮やかなビジュアルと、これぞ歌舞伎の醍醐味とでも言えるような大見得が特徴で、たしかに歌舞伎の典型的な様式のようにも思える。
この作品は1862年に河竹黙阿弥によって創作されたものだが、黙阿弥は錦絵から作品のヒントを得たそうだ。
ある歌舞伎の専門家の方は、外題「青砥稿花紅彩画」の中に「青」「花」「紅」「彩」「画」と美しいビジュアルを喚起する語が入っていることから、黙阿弥はコピーライター的なセンスを備えた作家だったと分析されている。

大見得を切る。


会場から盛んに歓声が浴びせられ、楽しく盛り上がる。
昭和46年に秋田魁新報より刊行された「秋田の民謡・芸能・文芸」に、当時の森岳歌舞伎の様子が記されている。
「旧8月15日の満月の夜、八幡神社の境内で行われる。神社氏子組の敬神会は、芝居好きの若者をスカウトして余興部に入れる。旧8月1日の相談会で出し物を決め、4日から農家の一室を借りて練習を始める。余興部員は男女合わせて30人。ブリキやボール紙で小道具を作り、祖先伝来のホンを見て覚え、現在の出し物は『菅原伝授手習鑑』など10種である。ヨシズっ張りの粗末な舞台だが、役者は大熱演、ハチ巻きの農夫も、思わずタバコを口から離し、”音羽屋!゛と叫ぶタイミングも心得ている。」
平成18年に完成した現在の農村歌舞伎会館の充実した施設ぶり、そして豪華な衣装や小道具などからすると隔世の感があるが、今日舞台に立った児童たちは、森岳に息づく歌舞伎の伝統を確実に受け継いでいる。
おそらくはたくさんの観客の前で演じる喜びを実感しているに違いないし、森岳歌舞伎の明るい未来がここにあると言ってもいいと思う。

続いては「花柳流舞踊」綺麗な踊りです。

「越後獅子」角兵衛獅子の衣裳で踊りを見せる門付芸なのだそうだ。

ちょっと雨が降ってきた。傘を必要とするほどではなく、特に問題はない。

幕間の後援会会長、保存会会長の挨拶に続いて、今日最後の演目となる「一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき) あばら屋の段」が始まる。
平成18年に農村歌舞伎会館のこけら落としの際に上演された「一谷嫩軍記 林住家の段」とは名前が違うだけで同じ演目だと思う。
なお「嫩」とは平敦盛のことを指すそうだ。

幕が開きました。右側にちょこんと座っている老婆が「はやし」

一谷嫩軍記は宝暦元年(1751年)に並木宗輔、浅田一鳥・浪岡鯨児・並木正三・難波三蔵・豊竹甚六によって作られた。
本外題は「一谷嫩軍記」だが、三段目のなかの《熊谷陣屋》が独立して上演されることが多く、ゆえに通称「熊谷陣屋」で紹介されることが多いようだ。
また、二段目のなかでは《陣門・組討》が上演されることもあるそうだが、同じく二段目の《あばら屋の段 = 菟原の里林住家》に関しては、パンフレットでは「現在では大歌舞伎で上演されることもなくなっており、森岳歌舞伎のような地方の伝承芸能の中で演じられるに過ぎなくなっている」と紹介されている。
一谷嫩軍記の中身だが、源平合戦の最中に源氏方の武将 熊谷直実とその妻 相模、直実の子 小次郎、そして源義経や平家方の武将 平敦盛やその母 藤の方などが見せる武士の情や親子の情愛を通じて、戦の世の無常さを描く一大長編となっていて、どちらかといえば「あばら屋の段」はサイドストーリー的な要素の強い場面となっている。

はやしのもとを平忠度が訪れる。


パンフレットにかなり分かり易い説明が書かれているので抜粋したい。
《第一の場》時は、源平の戦いの最中、歌人としても名高い薩摩守忠度(さつまのかみただのり)が、歌の師匠である藤原俊成(ふじわらのとしなり)の屋敷で時を過ごし、陣門が閉じてしまって帰陣できずに、道中のあばら屋に一夜の宿を乞う。そのあばら屋の主は、かつて俊成の屋敷に乳母として仕えていた「はやし」であった。忠度はその奇縁を喜び、また「ゆき暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし」の歌を詠んで謝意を示して奥へ入る。

第一の場はこれで終了
絶えず三味線の音が流れており、源平合戦の真っ只中に再会を懐かしむ忠度、はやし両名の慎ましい喜びが音で表現されているようだ。

役者の動きに合わせ、三味線や唄、鳴り物で場面を盛り上げる「下座音楽」奏者用のスペースもきちんと用意されている(大歌舞伎の劇場では「黒御簾(くろみす)」と呼ばれる小部屋に奏者が入って演奏するそうだ)。

歌舞伎の劇場ではつきものの「花道」も

花道を舞台にして演じられる場面も結構あって、観客から見て前方と左方の2箇所でお芝居が見られる感覚が結構楽しい。
農村歌舞伎会館は歌舞伎以外にもいろいろな用途で使用されることがあるようだが、やはり歌舞伎上演専用会場として理想的な施設であることが分かる。
また、農村歌舞伎会館の前は山本町芸術会館という施設名で1970年~使用されていたが、やはりそちらも歌舞伎の舞台としての機能がメインだったそうだ。

場面は第二の場へと切り替わる。
忠度が奥の部屋へ移り、はやしの姿も見えなくなった隙を狙って盗賊が入ってくる。


何故か憎めない風体の盗賊はかなりおっちょこちょいで、つまづいたりぶつかったりドタバタしつつも刀袋に入った刀を見つけて持ち出そうとする。

が、あっけなくはやしに見つかってしまい、刀を盗むのを阻止されてしまう。

はやしが盗人の顔を確かめると、昔勘当した息子の太吾平なのだった。

太吾平は特別悪びれることもなく、妙な理屈で刀を持ち出そうとする。どうやら源平の合戦に参加し、功成り名遂げようとしているらしい。


太吾平の明るく奔放なキャラクターのせいなのだろう、先の第一の場とは雰囲気が異なりコミカルで笑いが起こるような芝居が展開される。
「役者がわかる!演目がわかる!歌舞伎入門」に上級鑑賞者の方々の座談会が掲載されているが、そのなかである方が「歌舞伎は今や一ジャンルとして扱われているけど、実際はひとりの役者がバレエ、ミュージカル、オペラ、ストレートプレイなど、あらゆるジャンルのものをこなしているオールマイティなお芝居」と説明されていた。
たしかにそのとおりで踊りあり、笑いあり、お芝居ありのある種ドタバタ感あふれるエネルギッシュな舞台で、これまでイメージしていた歌舞伎とはかなり趣が異なる場面だ。

はやしと太吾平のあいだに割って入ったのが、人足回しの茂次兵衛。合戦に加わる兵のいわば源氏方のリクルーティング担当の一人、ということになるのだろう。

太吾平に旗持ち役として合戦に参加してほしい、と持ちかける。

太吾平と茂次兵衛の絡みが面白い。

茂次兵衛の秋田弁がいい味を出している。
地芝居ならではの素朴さが一際表現されていて、ほっこりさせられる場面だ。
この後、茂次兵衛は忠度がいることを源氏方に密告する狡猾な役回りを演じるわけだが、そんな人物の秋田弁にほっとさせられるのも妙なものがある。
秋田っぽさが出ていると言えば「秋田・芸能伝承者昔語り」によると、かつての森岳歌舞伎は数少ない役者が一人何役もこなす手前、幕間の時間がこれでもかというぐらいに長く、そのことが原因で日常生活において合間が長いこと、時間のかかることを「森岳の芝居だ」と形容していたそうだ。
おそらく地元でのみ通用する表現だと思うが、逆に言えば「森岳歌舞伎の幕間は長い」事実が人々の共通認識でもあっただろうから、これはこれですごいと思う。

無事に雑兵になった太吾平は意気揚々と太刀を持ち、戦場へと向かう。はやしは我が息子に(雑兵とは言え)仕事を与えてくれた茂次兵衛を酒肴でもてなすのだった。

次から次へと登場人物が変わり、いろいろな芝居を見せる。
先ほど紹介した「役者がわかる!演目がわかる!歌舞伎入門」の座談会のなかである方が「僕が必ず初心者に言うのは、歌舞伎を”鑑賞”しないこと。歌舞伎は花見と一緒で”見物”するものなんです。(中略)人気役者をナマで観たとか、衣裳がキレイだったとか、雰囲気や食事、土産物を楽しむ。最初はそれでいいと思います」と述べられていた。
管理人がもちろん正しい歌舞伎の鑑賞方法を心得ているわけはないが、この方の仰る通りでまずはのんびりとビール片手に鑑賞するぐらいがよいような気がする。
また、ついついストーリーを追ってしまう傾向はあると思うが、そこに捕われずもっと視覚的、感覚的に鑑賞するのがまずはオススメということだろう。

そしてあばら家の段のクライマックス、第三の場へと話は進む。


第三幕の始まりの場面をパンフレットから抜粋
茂次兵衛が奥で一杯飲んでいる時、俊成の娘で忠度の恋人である「菊の舞」が、自分の乳母であった「はやし」を訪ねてくる。実は忠度を慕い、後を追ってきたのだが、女の足では追いつかぬと、悲嘆にくれるのであった。しかし、はやしから忠度が同じ屋根の下にいることを聞き、菊の舞は喜んで忠度の所へ行く。
たくさんの人物が入れ替わり立ち代り登場して物語を紡いでいく様子は、ストーリーをじっくり追うというよりも役者の芝居がまずはメインであり、その演技を楽しむことに重点が置かれていることが分かる。
「秋田の芸能伝承者昔語り」に森岳歌舞伎に携わった歩仁内一也(ぶにうちかずや)さんという方の談話が掲載されているが、そこで歩仁内さんは「『一の谷』で熊谷(管理人注:熊谷直実のこと)が主役だと?冗談じゃない。敦盛がいないと熊谷は熊谷にならんし、小次郎は熊谷の一子で、これはもう舞台の幕が切ると同時に花道にいなけりゃならない大事な役だと。だから歌舞伎に出る者は、全部主役なんですよ」と一人にスポットライトが当たるのではなく、登場人物皆が主役であり、皆で作る芝居の重要さを説いている。
はっきり言うと「あばら家の段」に登場する人物に主役級に当たる役は一人もいない。
ただ、そんなことは重要ではなく、役者たちの観客を楽しませる演技こそが本来求められるべきものなのであって、それこそが森岳のような地芝居の魅力なのだと思う。

酒を喰らいつつ、菊の舞とはやしのやり取りを聞いていた茂次兵衛はこの館に敵方の武将 平忠度がいることを知り、早速源氏方の梶原景高へ報告

無事にはやしの館で再会することができた忠度と菊の前だが、忠度から別れ話を切り出されて涙を流して悲しむことになる。


源氏の勢いに押されて敗戦続きの平家の未来が明るくないことを悟っている忠度は、このまま菊の舞と恋仲が続けば菊の舞、そして歌の師匠である藤原俊成にも累が及ぶことを懸念し、別れ話を切り出したのだった。
先の太吾平、茂次兵衛のドタバタ劇から一変し、哀切あふれる場面へと観客を誘う。
この場面転換のダイナミズムも歌舞伎の持ち味の一つなのだろう。
思い切り笑わせてくれると同時に、涙を流さずにはいられない悲しい場面も見せてくれる。まさしくザッツエンターテインメント。

そこに茂次兵衛の報告を受けた梶原景高たち源氏の兵士たちが入ってくる。忠度ははやしと菊の舞を別の部屋へと隠し、一人で源氏の兵士たちと戦ってこれを撃退する。


この段で唯一見られる立ち回りのシーンだ。
普段歌舞伎鑑賞をすることもないし、おそらく鑑賞眼もないであろう管理人だが、この立ち回りのかんじはどこかで見たことがあるな、と思ったら以前鑑賞した本海獅子舞番楽 八木山講中の舞った「羅生門」のかんじに近いことに気づいた。
「羅生門」は本海獅子舞番楽の中では異色中の異色で芝居風番楽として知られていて、要するに地芝居の影響を受けた番楽の演目な訳で、そのルーツが今日の忠度と源氏の兵たちの立ち回りなのだと思う。
歌舞伎の世界においては立ち回りの場面がひとつの様式として大きな見せ場となっているが、実は立ち回りを見せるための手法が何百種類も確立されているそうだ。
とにかく観客皆が食いつく場面だけに、少しでも派手に華やかに見せることが肝要なのだろう。

なんとか梶原景高たちを退けた忠度だが、次に押し寄せるであろう源氏方の兵たちを警戒する。だが、そこに現れたのはたった一人の武将「岡部忠澄」だった。

忠澄は源義経の命を受け、忠度の詠んだ「さざ波や 志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜から」の句が勅選和歌集に加えられることになったことを知らせに来たのだった。

お客さんもクライマックスに見入ってます。
森岳歌舞伎の起源については詳細な資料が火災で消失したため不明とされているが、約300年前の江戸中期にこの地を訪れた修験者が病に臥せった折、森岳の人々が手厚く看護したお礼に歌舞伎を教えたのが始まりとされている。
その後歌舞伎は明治時代に隆盛を極め、「山本町史」によると大町若・林崎若の2つの舞台がかけられて近隣からも大挙して観客が押し寄せていたそうだ。
当時の盛大な舞台の様子は伺えないものの、今でも森岳の人々の記憶として森岳八幡神社、そして森岳歌舞伎が存在しているのだろう。

勇猛な武将であると同時に、優れた歌人でもある忠度はこの上ない栄誉と捉え、それと引き換えに忠澄に我が身を差し出そうとするが、忠澄は、それには及ばない、正々堂々と戦場で刀を交えようではないかと忠度を諭す。

史実によると忠度と忠澄は実際に戦場で刀を交え、忠度は討ち取られてしまうことになる。
源氏方の武将に紛れて隠れていた忠度だが、お歯黒を塗っていたことから平家の武将であることを見抜かれて討たれてしまったらしい。
公家と見まごうような出で立ちの忠度が、関東の血気盛んな武士の刃にかかる姿を想像すると、まさしく平家の栄枯盛衰を体現したかのような存在だと思わずにいられない。
なお、岡部忠澄を演じたのはなんと中学校2年生の子とのこと!この貫禄はすごい!

そして、忠度と忠澄の2人が見得を切りながら終幕となる。

最後は全員で観客に挨拶。皆さんお疲れ様でした!


これほどの芝居を見せてくれたのだから、その練習量もかなりなものだったと思う(保存会会長のご挨拶によると、ぶっつけ本番で臨まれた演者さんもいたらしい。それはそれでハードだ)。
後日読んだ秋田魁新報のコラムで、今日出演したお一人の方についての紹介があり、何でも演者だったおじさんに憧れて中学生の時分から舞台に立ち続けていたそうだ。
そして今日は初めての立ち回り披露ということで熱心に稽古に励まれたとのこと
森岳に伝わる伝統行事だから‥という理由だけでなく、芝居に打ち込む気迫や情熱がないとこれほどの演技はできないと思うし、その点は役者そして裏方の皆さん全員同じ気持ちだと思う。

終幕後の舞台と花道。当初思っていた以上に素敵な舞台空間だった。

観客の皆さんが足早に、だが満足げな様子で会場をあとにする。
管理人も弱々しい雨が降り続くなか、森岳八幡神社をあとにして秋田市へと帰った。

さきがけのコラムで「森岳歌舞伎に再び光を当てる動きは広がっている」と紹介されているとおりで、関係者の方々の森岳歌舞伎愛が伝わる素晴らしい芝居を見せてもらった。
会場も年配の方々を中心に満杯となっていて、思わぬ場所で思わぬ熱気を感じてちょっと驚いてしまったほどだ。
普段は歌舞伎を見ることはないが、思わず前のめりに鑑賞せざるを得ないぐらいに熱く楽しい芝居だったし、ちびっ子たちの可愛らしくも凛々しい役者ぶりも印象に残った。
これからも森岳の人たちの心の拠り所として、たくさんの観客を楽しませる芸能文化として続いていってほしいと思う。


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