今戸願人踊り

2019年5月5日
ゴールデンウィーク中盤のこの日、昨年と同じく「願人踊り」を鑑賞した。
願人踊りと言えば、多くの秋田県民は八郎潟町一日市のそれを連想すると思う。というか、願人踊り=一日市の専売特許みたいに思っている人も多いことだろう。
だが、実際には一日市以外にも行われている地域があるのだ。
今日はそのなかの一つ、井川町今戸の願人踊りを紹介したい。

「秋田の祭り・行事」によると、この行事は5月5日の熊野神社祭礼における奉納行事として披露されるらしい。
それも「今戸子供願人踊り」として紹介されていて、「子供たちが中心となって行う」との説明が追加されている。
一日市のほうは大人と子供計2組が編成されていたが、今戸は子供のみによる願人踊りとなる訳だ。
また、同時に行われる「今戸子供民謡手踊り」についても「参加者が小・中学生。秋田大黒舞、秋田おばこ甚句などの民謡をオリジナルで踊ります」と説明されていて、要は子供たちによる郷土芸能披露と捉えてよさそうだ。
そのような事前情報を頭に入れつつ、当日現地へと向かう。

5月5日
文句なしの晴天となった。
秋田市の自宅からおよそ40分ほどをかけて井川町今戸へ入る。会場となる熊野神社については事前のリサーチで位置を確認していたので、あっさりと到着

行事開始の9時まで、まだ30分ほどあるのでぶらぶらして過ごす。

ツートーンカラーの幟が立ってます。

リヤカーに神輿が乗せられている。これで巡行するんでしょうね。

こちらはすぐ隣にある真言宗のお寺「實相院(じそういん)」
熊野神社との境に柵などはなく、同じ敷地内のようにも見えるが、ちゃんと境界はあるそうだ。

それにしても‥

さっきから願人の衣装を身にまとった成人男性をちょいちょい見かける。
てっきり子供たちのみの願人踊りだと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
まさか衣装まで着けておいて踊らないなんてことはないはず。
地元の方に伺ったところ、たしかに以前は今戸子供願人踊りと称していたが、子供達の数がめっきり減ったため5~6年前から大人も参加して「今戸願人踊り」と改称したそうだ。そういうことだったか。

開始時刻9時を迎えようとしている。
境内にギャラリーも集まってきた。
舞い手5人と音頭あげ、歌い手も定位置へスタンバイ。舞い手、音頭あげ、歌い手、定九郎、与市兵衛は成人男性、歌い手、口上言いは子供たちで編成されている。

世話役の方による紹介に続いて踊りが始まった。


手と足が同じ方向に出る振り付けから「一直踊り」とも呼ばれる独特の踊り。これまでたびたび一日市の願人踊りを見る機会があったが、ユーモラスで本当に楽しい踊りだ。
「願人」というのは元々下級山伏、修験僧のことを言う。
彼らが伊勢や熊野信仰普及を目的として、村回りの芸人として各地を巡り歩いた際に伝えたのが願人踊りという訳だ。
井川町史によると「今戸地区に伝承されている願人踊りの由来はつまびらかでない」とのことだが、一日市で言えば「江戸の中期、天明のころ、羽立の村井金之丞が、伊勢参宮をしてその土産に伊勢音頭の手振りを従来の願人踊りに挿入したという」そうで、願人踊りの原型がその頃に創作されたことが分かる。
その後、明治元年(1868年)に歌舞伎の仮名手本忠臣蔵五段目 山崎街道 二つ玉の段が挿入されるに至り、今私たちが目にする踊りが完成したということになる。

踊りが続きます。


井川町史には、同種の願人踊りが隣接する大川(五城目町)と一日市にも伝えられている、と記述したうえで「今戸の願人踊りもまた隣町のものと形態や構成がほとんど同じで、かつて藩政のころは一日市・大川・今戸が一連の生活文化圏にあったことから、同系統のものであろうと考えられている」と紹介されている。
確かに衣装や踊りは概ね同系統と言えるが、細部に目をやると一日市に比べ‥
・両腕を突き上げる際に肘をピンと伸ばさない。
・前後の動きが少ない。
・(頬かむりではなく)頭に手拭いを巻いている。
といった違いを見ることができる。

歌い手と音頭あげ


♪ひょうたんよ ちがやね アラ爺様は山にて柴かりに アソレソレ
婆様は川にて洗たくに アラ桃の中からひょうたんよ
その名は何とはいうぞやら 桃太郎さんというぞやら
独特の節にユニークな歌詞が、この踊りの特異性を際立たせている。
少なくとも、この地域以外に県内に類似する唄やお囃子はない(と思う)し、伊勢や熊野信仰を広めた旅芸人たちが伝えた芸能というルーツをそこはかとなく感じさせてくれる。

ひとしきり踊ったあとに定九郎、与市兵衛が登場する。


井川町史を見ると定九郎、与市兵衛ともにちゃんとした台詞があるようだが、かなりアドリブが入る。
それも与市兵衛が話すのはバリバリの秋田弁で、大歌舞伎役者然とした定九郎との対比が面白い。
また、定九郎と与市兵衛のやり取りに関して言えば、原作には両者が金をめぐって駆け引きする場面が描かれているが、現在は草むらに潜んでいた定九郎がいきなり夜道を歩く与市兵衛を刺し殺し、その懐から財布を抜き出して「五十両。。。」とつぶやくだけの演出に変わっているそうだ。

願人踊りが終わると、すぐに女の子たちによる踊りが始まる。


かすりの着物姿がとても可愛らしい。
鮮やかな赤が特徴的な花笠をときにおぼつかない手つきで、ときに巧みに扱いながら懸命の踊りを披露。みんなこの日のために一生懸命練習したに違いない。
なお、一日市では願人踊り、子供願人踊りとは別に秋田音頭牽き山車が巡回し、子供たちが踊りを披露していたが、今戸では願人踊りとセットになっている。

演目は花笠踊り


「ヤッショ、マカショ」の掛け声でお馴染み、山形を代表する夏祭りである花笠まつり。
東北四大祭りの一つでもあり、全国的によく知られている踊りだ。
管理人も小学生の頃、運動会だか学芸会だかで踊らされた(←言い方悪いですが)記憶があり、竿灯の「ドッコイショー!」より「ヤッショー、マッカショ」のほうが全然馴染みだったりする。

神社境内での踊りが終わると町内を巡行


水を張った田んぼの後ろには湖東地域のシンボル、森山がそびえ立つ。
森山のすぐ近くには標高231mの高岳山(たかおかさん)が並び立っていて、八郎潟町史には願人踊りについて「正徳4年(1714)に副川神社が高岡山(※管理人注 高岳山のこと)に再興されてまもない頃、真坂、夜叉袋、一日市の三集落で踊っていたのを神社の祭典行事のプログラムに加えたものである」と記述されている。
副川神社は以前は大仙市神宮寺の嶽六所神社(3月に梵天行事を見てきました)のある神宮寺嶽山頂に鎮座していたが、のちに高岳山へ遷され、現在に至っている。
また、同社は日本最北の延喜式内社(平安時代に発布された法令集「延喜式」に記載された神社)としても知られている。

のどかに巡行が続く。


ところで先に「秋田の祭り・行事」には子供たちが中心となって行うと書かれている、と紹介したが、井川町史を読むと昭和40年代初め頃から演者となる若者たちの離郷が続いたため、「昭和53年以降地元の小学校児童による伝承保存体制が再度同地の有志によって確立された」とある。
要するに元々は成人主体の行事だったのが、一時的に子供たちの行事へと様変わりしたものの、今度は子供たちが減少する事態となったため再度大人たちが行事に戻ってきたという変遷を辿ったようだ。

町内の丁字路で立ち止まって、今度は女の子たちによる「秋田おばこ甚句」

手拭いを器用に操って、またまた可愛らしい踊りを披露


曲名の「秋田おばこ甚句」については、ほぼ秋田おばこ節と同じようだが、微妙に歌詞が違うようだ。
「踊り踊らば品よく踊れ」という甚句ではよく聞く歌詞が混じっているのが特徴でもあり、また、「甚句」と付くのは踊り向けの小唄のことを指すようで、言わばボーカルメインではなくダンスのための秋田おばこ節みたいな位置づけでもあるようだ。
どうやらかなり新しい時代の曲でもあるようだが、民謡のことはあまり詳しくないのでこのへんの事をご存知の方がいたら教えてくださいm(_ _)m

再び移動


巫女さんのような出で立ちの2人の若い女性に住民の方から初穂料が差し出される。
願人踊りは本来門付け芸能なので、踊りを披露することで報酬を得ていたもののはずだが、ここ今戸においては家々を廻って踊って見せることはせず、町内の4箇所ほどで願人踊りと女の子たちの踊りが繰り返されていたので、門付けの要素は非常に薄いと思う。
なお、一日市では午前9時の一日市神社での奉納を終えた後は家々を長時間かけて廻っていたことから、門付けの雰囲気が色濃く残っていたように感じた。

今度は願人踊り


先の秋田おばこ甚句のときよりも更に観客が増えてきた。
ここ今戸は全154戸ほどの地区だが、おそらくは住民の皆さん全員が年に一度のこの愉快な踊りを楽しみにしていたに違いない。
今日は文句なしの快晴で暑いぐらいだ。
演者の方の話では雨になってしまう年も結構あったそうだが、それを思えば春の朗らかな陽気のなか、こうしてのんびりと踊りを鑑賞できるのはこのうえない贅沢のような気がした。

長襦袢に前垂れ、鈴のついた手甲、脚絆に足袋、たすきがけの特徴的な出で立ちはかなりインパクトがある。


伝統行事・伝統芸能について調べていると「風流(ふりゅう)」と呼ばれるジャンルというか、概念に触れることが多い。
コトバンクには「趣向を凝らした作り物に発し、祭礼でのさまざまに飾り立てた作り物、これに伴う音楽、舞踊などをいう」と書かれていて、豪華な山車や盆踊りなどが非常に分かりやすい例だ。
願人踊りもその恰好や踊りを見れば、風流に昇華された芸能の一つであることがすぐに分かるのだが、その奇抜さ、エキセントリックさは際立っていて、県内の伝統芸能の中でも風流の一番の体現者であるように思う(ちなみに音頭あげの持っている傘はそのものずばり「風流がさ」と呼ばれている)。
なお、風流については秋田魁新報が昭和46年に刊行した「秋田の民謡・芸能・文芸」の中で「はじめ祭りは政治(まつりごと)といわれたように、おごそかなムードであった。神楽がその例である。平安時代から、祭りは社殿から野外に出て人に見せるようになった。観客を意識すると、人目を奪うように祭りが装飾化されデラックスになる。これが”風流になった祭り”である」と分かり易い解説がされていた。

口上言いの男の子。「東西東西(とざいとーざい)!」から始まる口上を見事に述べていた。


井川町史では、今戸願人踊りの起源は不詳との記述があったものの、地元の年配男性から「大川(五城目町)から伝わったって言われてるよ」と教えていただいた。
大川は馬場目川を挟んで八郎潟町と隣接する地域なので、一日市から大川に伝わった可能性が高いと思うが、ではなぜこのような全国的な芸能が湖東地域のごく限られたエリアにだけ伝承されたかについてはよく分からない。
先述の村井金之丞が現在の願人踊りの原型を作ったのは相違ない。しかし、それ以前にこの地で踊られていたオリジナル願人踊りはどこからやってきた芸能なのだろうか。
そう考えたときに、管理人的に脳裏に浮かんだのは一日市盆踊りの演目「サンカツ」
サンカツは大正時代にたまたま一日市に宿を取った旅人が伝えたとされていて、今では「デンデンヅグ」「キタサカ」と並んで一日市盆踊りのレパートリーとなっている。
素性の分からない旅人(←本当にどこの誰だか分かっていないそうです)が、たまたま一日市の人たちに伝えた振りが現在もきちんと残っていて、踊り続けられている訳だ。
八郎潟町を中心とする湖東地域の人たちには、伝統的に外部のモノを積極的に受け入れるオープンな気質が備わっていて、その点がまさしく願人踊りを廃れさせることなく今日まで継承できた理由であるように思えるのだがどうだろうか。

定九郎と与市兵衛も再登場
暑さに耐えかねたのだろう、与市兵衛がカツラから帽子に被り変えた。だが、それによって農家のオッサン感が増幅


井川町史で紹介されていたのだが、昭和38年に設立された日本歌謡学会の発行する冊子「日本歌謡研究 第15号」に、「定九郎は百日鬘(ひゃくにちかずら)に褞袍(どてら)着の山賊姿である。隈取りも独特である。この定九郎は初代中村仲蔵が明和3年(1766)9月、江戸市村座の興行で今日見るような五分月代鬘、黒羽二重の単衣の、手足も白塗りの江戸商人の姿に改める以前の扮装である。演技も全く荒事である。どうして八郎潟町にこの古い定九郎の型が伝え残されているのか」との記述があるようだ。
たしかに以前にかほ市象潟町大森で鑑賞した大森歌舞伎に登場した定九郎は黒を基調とした衣装の、ある意味スタイリッシュでカッコイイ悪役だったが、願人踊りに登場する定九郎は粗暴者を絵に描いたような風貌で、随分とイメージが違っている。
普通に考えれば明和3年以前に旧タイプの定九郎の恰好がすでに八郎潟に定着していて、その後に願人踊りに加わったと考えるべきだが、先に書いたように定九郎、与市兵衛が願人踊りに合流するのは明治の世になってからだ。
では100年ものあいだ、定九郎はどこに潜んでいたのかというと、村芝居に出ていたとか、それらしい記録は全くない。
そう考えると、踊りに割って入って奔放に振舞うだけの愛すべきキャラクター定九郎が、何やら謎めいた存在に思えてしまう。定九郎よ。お前は一体何者なのだ?!

少し移動して、今度は女の子たちの踊りが始まる。


太鼓のバチを持って、またまた精一杯の踊りを見せてくれる。
気温がさらに上がり、みんな大変なはずだが、そんなことを感じさせない一生懸命さが素敵だ。
この演目については、世話役の方から「寿太鼓」との説明があった。
聞きなれない名前だなあ、湖東地域に伝わる伝統的な踊りなのだろうか、などと考えていたが、調べたところ「寿太鼓」というのは演歌歌手 鳥羽一郎が1991年に発表したシングル曲で、それに振りをつけた演目だったようだ。
なお、井川町史には今戸願人が八郎潟の願人と類似していると前置きしたうえで「今戸願人踊りが、その身振りや動きにおいて幾分活発だとされるのは、浜っこの気質がより濃厚に反映されたものであろうか」と記されている。
浜っこ = 海の男 = 鳥羽一郎御大、ということでの選曲だった可能性は、、、ないと思う。

時刻は10時を過ぎた。
これから近くの公民館で休憩を入れた後に、もう一度願人踊りを踊って町内の巡回は終わるとのこと
管理人も十分に楽しませてもらったし、と今戸をあとにすることにした。

帰り際、ブログ記事掲載の許可をいただくために世話役の方と少し話をした際、「一日市より規模の小さい願人踊りだけどみんな頑張ってます!」と力強く仰っていたのが印象的だった。

一日市願人が八郎潟駅前に多数の観客を集めて行われるイベントなのに対し、今戸の願人踊りは手作り感満載の素朴な行事だった。
コミカルな願人踊り、女の子たちの可愛らしい手踊り、観客を笑わせてくれる定九郎と与市兵衛が見られる中身の濃い行事であるとともに、起源が定かではない定九郎の存在などもあり、仄かなミステリー感も漂う重層的な楽しみかたのできる行事でもある。
湖東地域独自の伝統、気風を反映させた陽気で楽しい行事 - これからも今戸の人たちを楽しませ続けてくれることだろう。


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