能代のナゴメハギ

2019年12月31日
前回の記事「角館祭りのやま行事」から2ヵ月半以上が経過した。
夏・冬に比べて数は少ないものの、その間ぽつぽつと伝統行事やお祭りが行われたが、都合が合わずどれも見に行くことが叶わず、そうこうしているうちに年の瀬を迎えてしまった。
そして年の瀬といえば、男鹿のなまはげ!ということになるのだが(3年連続で鑑賞しているし)、今年は趣向を変えて能代で大晦日を迎えることに決定。
目的は能代市浅内で行われる「ナゴメハギ」。男鹿のなまはげ同様の来訪神行事であり、なまはげ類似行事の中では男鹿に次ぐぐらいの県内知名度を誇る(と勝手にランキング)。

来訪神行事(←文化遺産オンラインHPにリンク)については事前に現地の下見を兼ねて、責任者の方とコンタクトを取るようにしている。
大通りでドーン!と繰り広げられる祭り・伝統行事と違い、住宅が立ち並ぶ細い路地をくねくねと進むことが多いので、なんとなく地域の様子を抑えておきたいというのと、一般のご家庭に上がらせてもらうことに問題はないか、撮った写真や動画をネットに上げることに問題はないか、(基本的にはそのお宅の方の裁量にはよるが)あらかじめ責任者の意向を確認しておきたいというのもある。
ということで行事の10日前ほどに現地能代へ赴いて、住民の方からナゴメハギ保存会現会長は保坂さんという男性の方であることと、お住まいを教えていただいた。
さっそくお宅を訪問したもののこの日は不在のため、お会いできず。後日あらためてご家族からうかがった携帯へ連絡を入れる。
行事の準備で多忙を極めているなか、丁寧に対応してくださった。
保坂会長からは、行事は大晦日の17時に町内の浅内自治会館で準備をして、その後浅内神社で神事を行ってから始まること、浅内は160ほどの世帯で構成されていて約2~3時間ほどかけて巡回することなどを教えていただくとともに、ブログ記事化についてもご承諾いただいた。ありがとうございます!当日よろしくお願いします!

さて当日です。
15時に秋田市を出発、ひたすら国道7号線を北上して16時半に到着。付近に車を止めて少し歩いて自治会館を目指す。
前日までは冬とは思えない晴天だったが、この日は時間によっては吹雪くほどの荒天。ナゴメハギの到来を告げるかのような不穏な空気ってのは怖がりすぎだろうか?

無事に自治会館へ到着

中へ入ると、ナゴメハギ一行が支度の真っ最中だった。

総勢13名がナゴメハギとなり、上・中・下の3班に分かれて地区内を巡回。また各班には餅もらいという、ナマハゲで言うところのカマス担ぎ(各家からのご祝儀を受け取る)役の少年たちが同行するという。
まずは保坂会長にご挨拶。かなりお若い方にもかかわらず保存会会長に選任されているだけあって、リーダーシップ抜群!テキパキと指示を飛ばし、皆を統率していた。
ナゴメハギ役の男性は若い人たちばかりで、この手の行事の問題点である高齢化とは無縁のようだ。
また、秋田魁新報、地元の北羽新報の記者さんも見えられている。そして管理人的にはよく存じ上げている、意外な方々とも出会った。
まずは、秋田駅前のアートギャラリー小松クラフトショップの店主を務める傍ら、県内の道祖神フィールドワークに大活躍されている秋田道祖神プロジェクト(ANP)代表 小松和彦さん、小松さんとともにANPの活動を通じて素敵なイラストで華を添えられているイラストレーターの宮原葉月さん(宮原さんデザインのTシャツ、愛用してます)。そしてもう一人、秋田県内における菅江真澄の足跡をたどり、県内各地の伝統行事や習俗を独特のイラストとともに綴られている佐々木ゑびすさんも!
秋田の伝統行事研究の重要人物たちと、管理人なんぞが同じ行事を巡るなんておこがましすぎる‥と恐縮しつつ、やはり気になるのが「ナゴメハギ大人気じゃん!」
管理人的には、昨年ユネスコ無形文化遺産に登録され、最早秋田を超えて日本を代表する伝統行事へと変貌したナマハゲのあえて逆を張るつもりでナゴメハギをチョイスしたつもりだが、このもてもてぶりはどうだ?あれだろうか、東京に本拠を置きながら全国区の人気を誇る読売ジャイアンツに対し、東京ローカルの薫りが色濃く残るスワローズを応援するようなものか?(実際この日の男鹿にはたくさんのナマハゲ目的の観光客が押し寄せたという)などと余計なことを考えているうちに浅内神社への移動が始まった。

歩いて5分で神社へ到着

ナゴメハギ一行とともに中に入れていただくと、早速神事が執り行われる。


祝詞奏上に始まり、行事の無事をお祈りする杯を交わし、各々が面を受け取る。
これはナゴメハギ出立祭と呼ばれる、れっきとした神事だ(以前は除夜祭とよばれていたらしい)。
以前に見たナマハゲ行事でも出立の儀式が行われていたが、これほどまでに折り目正しいものではなかったので、出立祭の厳粛さにはちょっとビックリした。
宮司さんからは「道中、気を付けて行ってらっしゃい✋」と一行に激励の言葉がかけられた。

記念撮影。壮観です。

いよいよ出立となる。
12匹のナゴメハギ+餅もらい、同行者が3班に分けられて、それぞれが上(かみ)・中(なか)・下(しも)を巡回する。
よく知られた話だが、浅内のナゴメハギで付けられる面は、かつてこの地で行われていた番楽の面だ。
そして面には「山の神」「曽我兄弟」「爺面」「女面」などの種類があり、一つの班に同じ面を付けたナゴメハギが被らないよう、いい塩梅に割り振らないといけないため班編成もおのずと決まってくる。
管理人たち見物人も3班に振り分けられ、管理人は「上」の皆さんにくっついていくことに決まった。よろしくお願いしまーす!

浅内神社を出てまずは軽トラックで移動
浅内の住宅密集地から少し離れた場所のお宅も上のテリトリー内となっており、まずはそのエリアから攻めようという訳だ。場所的には秋田道能代南ICのすぐ近くのあたりのようだ。


最初のうちは「ウチは間に合ってますから」みたいなかんじで、ナゴメハギの入来を断るお宅が相次いだ。
総本山の男鹿のナマハゲでも家に上げないお宅が多いし、特別珍しいことでもないが、時折吹雪く悪天候のなか、家に上げてもらえないのは結構辛い。
1984年に能代市教育委員会が取りまとめた調査報告書「能代のナゴメハギ」には、浅内の古老たちの証言として「昔は勝手に家に上がっていた」「我々のときは玄関先でカネをジャンジャン鳴らしていきなり入っていった」という具合に、家人の許可がないと家に上がれない現在とは大きく異なる、かつての行事の様子が記されている。
昔であればこんな吹雪の中だったら、「早ぐ上げれ!!」と家人を一喝して勝手にドカドカ上がっていったことだろう。

巡回を続けるうちに、ナゴメハギを上げてくれる家が少しずつ出てくる。


入来の際には、まず餅もらいが玄関で「おばんです。ナゴメハギ入っていいですか?」とナゴメハギの到来を告げる。
そこで断られることもあるし、玄関先まで入るよう云われることもあるし、中に上がっていいと云われる場合もある。
上がって良しとなった場合には、必ず山の神を先頭とし、上の班には同行していなかったものの、グループにキツネの面のナゴメハギがいる場合にはキツネが最後に入ることが決まっているそうだ(餅もらいは決して中に上がることはなく、玄関先で待機)。
そして玄関を突破した際にはお馴染みの「言うごど聞いでらがあ~~~!」「ええ子にしてらが~~~!」といった咆哮が飛び出すわけだが、奇声メインでその中に日本語らしき言葉が混じっているかんじで、聞き取りが結構難しい。
おそらく番楽面のサイズの小ささ、顔面への密着具合などの要因で、喋りづらいうえに声が通らないんじゃないだろうか(多分)。

住宅地へと移動。次のお宅に上がります。


面+ケラ(藁でつくった衣装)+刃物などの持ち物(もちろんイミテーション)という基本的な組み合わせはナマハゲと変わらないが、細部に目を凝らすと随分とナマハゲとは異なる出で立ちなのが分かる。
もともとこの地で舞われていた「浅内番楽」で使用されていた面が、ナゴメハギ行事にも用いられているが、以前に見た山形県遊佐町のアマハゲや、県内でいえばにかほ市小滝のアマノハギでも番楽面が使用されているので、番楽面を付けること自体は珍しいことではない。
ただ、ナゴメハギはケラの下に桃色の襦袢、藍色の袴で装ったうえで、脚絆、腕巻きも付ける徹底ぶりで、これらはおそらく番楽の衣装だったと思われる(ケラの上にさらに獣の皮をまとうこともある)。
また、頭部には、シャガマ(主に由利本荘市鳥海町の本海獅子舞や、その周辺の本海流でよく見られるカッパの頭のような被り物。地域によって「シャグマ」「サグマ」とも呼ばれる)を思わせる、辮髪を似せたような被り物を付けていて、要はケラや持ち物以外は番楽の出で立ちがベースになっているようだ。
浅内番楽は昭和20年頃には途絶したと云われていて(戦後たびたび復興の動きがあったようだが、舞に精通していた唯一の男性が亡くなったことで復興への道筋が途絶えたらしい)、今では幻の舞となっているが、浅内番楽の衣装・装飾をナゴメハギが受け継いだといっても過言ではないだろう。

次のお宅へ。どうやら小さな子がいるらしい。ナゴメハギ一行も気合が入ります!


実はナゴメハギを見たのは今回で2回目となる。
2014年のことになるが、男鹿市文化会館で行われた「全国ナマハゲの祭典」に、ナマハゲや石川県輪島市の「アマメハギ」、岩手県大船渡市の「吉浜のスネカ」といった全国各地の来訪神たちに交じり、ナゴメハギも登場して実際の行事の様子をステージ上で再現したのを観覧した。
ただ、そのときは「キィーーー!」という奇声とともに子供役、お父さんお母さん役ばかりか観客にまでちょっかいを出す山形県遊佐町のアマハゲのトリッキーさに全部持っていかれてしまい、残念ながらナゴメハギの印象はほとんどない。
ということもあって、お子さんのいるご家庭でナゴメハギがどんな狼藉をはたらくのか、いやどんな訓戒を与えるのか非常に楽しみなワケです。ワクワク😀

子供たちに襲い掛かるナゴメハギ!!


ナゴメハギの恐ろしさに子供たちはギャン泣き( ノД`)!とはならず、微妙に躱されてしまっているが、ナゴメハギの威嚇の様子をよく見せてもらった。
甲高い「ガハワァーーーッ!」や腹の底に響く「ウオーーーーッ!」の咆哮に、鉦の「シャシャシャシャシャッ!!」の音が入り混じり、とにかく騒々しい。
「能代のナゴメハギ」には古老から聞き取った、かつての様子が記されていて「入口でカネをジャンジャン鳴らして、からっぽやむ者いねがァ、嫁いねがァ、泣ぐワラシいねがァ、勉強さねワラシいねがァ、と叫んで入ったものだ」「自分たちの時はワラ小屋にかくれて、そのままおっかなくて家に帰らなかったこともある。フダラにかくれようとして落ちてケガをした者もいる。とにかく真剣にかくれ場所を探したものだ」「初嫁はみんなかくれた。不幸があった家にはナゴメは入れないのでそこにかくれたりした。大みそかはかくれてばかりいるので、嫁に来た30年、40年たってもナゴメの顔をしっかりみたことがないという者もいる」といったように、恐ろしいのとやかましいので、地域のお嫁さん、子供たちからとにかく避けられていた存在だったことが分かる。

入来前から待機していた秋田魁、北羽日報の記者さんがここぞとばかりに囲い込み取材。お勤めご苦労様です。


男鹿のナマハゲにおいては、例えばご家庭が用意した料理をいただく、酒を飲む、といったときに面を外すわけだが、ここでは面を左に90度回すだけで、顔を晒す格好になるのでわざわざ外す必要がない。
そのことがあるからだろうか、クイッと面を回して家人とお喋りしたり、食事したりする場面を結構頻繁に見たように思う。
ただし、子供がいる前では決して面を外さないし、ナゴメハギのあるべき態度を変えることは決してない。
また、面を顔の横にずらしたことで、ナゴメハギの真横にいる子とお面が向かい合ってしまい、子供が地味におののいている場面もあったりして、ちょっと面白かった。

次のお宅へGO!


ナゴメハギが訪問した場合の対応のしかたもいろいろのようで、主に以下の3パターンに大別できそうだ。
①ナゴメハギを家に上げる。
②ナゴメハギを玄関先で迎える。
③入来を断る。
男鹿の場合、集落によって訪問の際の所作が違うものの、玄関先でカドを踏む(四股を踏む)だけという場合もあるが、浅内ではそういった所作はないようだ。
また、わざわざお膳を用意するお宅は見られず、料理でもてなすにしても家人とともに食卓を囲むスタイルとなっていた。
ナゴメハギ一行に同行する男子のことを「餅もらい」というのは、もちろん各家庭から供される餅を回収する役割からきている。
ただ、現在では餅に変わってほとんどのお宅がご祝儀を用意しているようだ。
少し前までは餅もらいが2名体制だったそうで、おそらくは餅もらいの持っている麻袋が餅でパンパンになったことだったろう。

こちらのお宅では本格的な饗応が用意されていた。ナゴメハギも一息入れようぜ、とばかりご馳走になる。


現在では激減したものの、かつてはこのように家々の座敷において、豪勢な料理でもてなされた光景がたくさん見られたことだろう。
これまでブログ記事でたびたびお名前をご紹介させていただいた、秋田の民俗研究の第一人者 稲雄次さんが書かれて2019年に刊行された「ナマハゲを知る辞典」には、つい最近まで浅内周辺の地域でもナゴメハギが行われていたことが以下のように紹介されている。
「平成29年(2017年)現在において、平成21年(2009年)頃に中浅内、平成24年(2012年)頃に黒岡、平成11年(1999年)頃に寒川の三地区は、浅内ナゴメハギ保存会の浅内を残して、ナゴメハギ行事が途絶えてしまっている。能代市教育委員会によれば、これらの三地区は復活の要望はあるものの、担い手の確保の問題が残っているということである」男鹿においては、市のナマハゲ交付金制度を利用し、ナマハゲ集落が続々と復活しているのとは対照的に、近年まで続いていたナゴメハギ集落が行事を取りやめている現況は本当に寂しい。
能代市に費用面のバックアップを期待しつつ、移住者の人たちの力を借りるなどして、復活の方向を模索することはできると思うが、こればかりは住民の皆さんの総意でないといけないだろうし、何より主体は住民の皆さんな訳なので簡単に「ハイ。復活しました」とはならないのだろう。
また、昭和24年(1949年)に行事が途絶した浜浅内については、面の伝承ができずに途絶えたということらしい。なお、行事が消滅した地区では中浅内が浅内同様に番楽面を用いていて、それ以外の地区は一般的なナマハゲに似た面を使用していたそうだ。

次のお宅にも小さなお子さんがいました。


小さい子がいると、ナゴメハギも大ハッスル(←死語)
ナゴメハギは、冬に囲炉裏にばかりあたっていると脛や腿にできる火斑のことを「ナゴメ」と呼んで、それを剥ぐことが語源となっている。
男鹿では同じものを「ナモミ」と呼び、これが「ナマハゲ」の名称のもととなっていることから、ナゴメハギはシンプルに能代版ナマハゲと言うことができると思う。
ただ、それを以てナゴメハギは男鹿のナマハゲがこの地に流れてきたもの、と言い切れるわけでもないようで‥
①蒙古襲来の折の恐ろしさを根付かせるため、子供の訓戒として発祥した説
②蝦夷の戦士の獰猛さを子供の訓戒として表現した説
③怠情な人間を戒めるために発祥した説
などがあり、未だにその起源についてははっきりと分からないそうだ。
ただ、男鹿⇔能代の距離的な近さや、県内各地に同様のナマハゲ類似行事が点在していることなどから、男鹿のナマハゲが浅内とその周辺地域に流れてきたと考えるのが妥当だろう。

どんどんとお宅を巡回


管理人が番楽面のなかでいちばん怖いと思ったのが「女面」
山の神の目を見開き、口をグワッと開けている表情も怖いが、女面の冷たい無表情さには思わず戦慄してしまう。
浅内番楽がとっくの昔に途絶えたことは先に書いたが、「能代のナゴメハギ」には浅内番楽がどのようなものだったが、結構詳しく記されている。
それによると、三種町(旧山本町)の向達子番楽が浅内番楽のルーツで、演目数は12番(武士舞、鈴木舞、えびす舞、三番叟、翁舞など)から構成されていたそうだ。
そして6月から練習を開始し、8月の旧盆の際に舞披露、8月15日には幕納めを行うスケジュールだったらしい。
なお、向達子番楽をルーツに持つ、と特定されているわけではなく、同じく能代市内の鰄渕番楽をルーツに持つとの説もあるようだ。
また、とあるご家庭にお邪魔した際にご婦人が鉦のことを「チャッパ」と呼んでいた。この呼び方などは鉦(手平鉦)を番楽の楽器として使用していた頃の名残だと思うが、どうなんでしょうか?

さくさく巡回します。


間近でみるとケラがかなりしっかり作られていることが分かる。
「能代のナゴメハギ」には、ケラが「毎年20日頃から青年会員がケラ作りに使うワラを持ち寄り、両手、両足、両肩、腰と一人分計7枚を人数分(例年12人程度)、30日まで集会所で編む」といった手順で製作されることが記されている。
管理人が保坂会長に電話連絡を入れたときも「朝から夜まで準備で忙しくしてるんですよ~」と明るく語ってらっしゃったが、おそらくはケラ作りにとんでもなく大変な手間がかかっているのだと思う。
行事後にケラをどのように扱うのかは現地ではお聞きしなかったが、「能代のナゴメハギ」を読むと、古老たちの「ケラは終われば神社のあたりで焼いた」「ナゴメを終わると使ったケラは捨てる。一度使うとあとは使わない」といった証言が載っているが、なかに「ケラは終われば捨てた。以前は塩をかけて焼いたという話を聞いたこともある」というものがあった。
塩をかけて焼く!?どういう意味があるのでしょうか?

基本的にずっと風が強く、時折雪が混じる。


浅内地区は、三種町から続く国道7号線から分岐し、能代市中心地へ走る幹線道路沿いの地区。ということで、大晦日の夜ながら思った以上に車通りが多い。
そんななかときに雄々しく、ときにトボトボとナゴメハギ一行が歩いているシーンは結構物珍しいようで、車を止めて撮影する人がチラホラと見受けられた。
昨年訪問した男鹿市船越のナマハゲでは、商店街をゆっくりと走る車を取り囲み、「ウオ~~~!」とやっていたが、それなどはナマハゲの恐ろしさをちょっとコミカルにアレンジした事例だと思うし、その地区その地域でいろんな来訪神の姿があることをあらためて実感した。

おじゃましまーす。


家人と飲んで食べて語り合う時間も結構多い。
いくらナゴメハギ役が若い人ばかり、と言っても、たくさんの家を回って「ウオー!」と叫んだり、酒を飲んだり繰り返すわけなので疲れないはずがない。
ということで酒席も羽目を外して盛り上がる、というものではなく、淡々と語らう雰囲気で進む。
なお、酒ということで言えば、なぜか上のほうでは日本酒、下のほうではビールが出される傾向があるという。
これまで男鹿のナマハゲを3個所で見たが、それとの比較で書かせてもらうと、北浦安全寺のナマハゲは一箇所に留まって相当長い時間、歓談に費やすことがあったし、北浦相川のナマハゲは飲食や問答込みで長くても10分程度の滞在だったのに対し、ナゴメハギは長すぎず短すぎず、ほどよいかんじで家々に上がって雑談を楽しむイメージ。
ナゴメハギ役の男性の近況報告や、浅内地域内の話題のほか、能代市の経済活性化に関する話や、市が推し進めるエネルギー産業の話まで、かなりいろんな話題がのぼっていた。
また、ちょいちょい夏に行われる盆踊りに関する話も出てきて、盆踊り好きの管理人的にはそちらのほうにも興味を惹かれた。

ケラからたくさんの藁屑が抜け落ちる。

ナマハゲ同様に、藁屑をその日じゅうに片づけることはせず、頭部や患部に巻き付けてまじないとするのが習わしだ。
「ナマハゲを知る辞典」で、著者の稲さんが「行事内容にナマハゲの影響が色濃く残っている」と記しているように、ナマハゲとの共通点が多くみられるのが特徴だろう。
いつ頃から浅内とその周辺でナゴメハギ行事が始まったか定かではないが、稲さんは発祥時期は比較的新しいと推測されている。
理由としては、文化元年(1804年)9月11日に浅内を訪れた菅江真澄の日記に、ナゴメハギに関する記述が見当たらないこと(行事の行われていた小正月に訪れた訳ではないものの「菅江真澄の慧眼さを頼りにすると、珍奇なものはすべて記録したはずである」とのお見立てによる)、面の伝承に番楽面が入り込んでいてナゴメハギ独自の面がないことを挙げられている。
ただ、番楽面を使っていた浅内、中浅内以外の寒川、黒川、浜浅内では木彫りのナゴメハギの面が伝承されていた訳で、伝承時期についてはまだまだ考察の余地があるように思う。

またまた強く吹き荒れてきた。「家に上げろー!」と手斧を振りかざす。「シャイニング」のジャック・ニコルソン状態


荒天の中の巡行風景こそ来訪神行事の醍醐味だと思う。
秋田の民俗行事に興味のある方ならよく知っていると思うが、県内にはナマハゲ同様の来訪神行事が点在している。
ナゴメハギ以外にも、潟上市のナマハゲ、秋田市豊岩、雄和や由利本荘市岩城のヤマハゲ、にかほ市金浦のアマハゲ、にかほ市小滝のアマノハギetc.
その多様さは本当に素晴らしいと思うし、全国に誇ってよいぐらいの層の厚さにもかかわらず、男鹿のナマハゲの存在があまりにも大きすぎるゆえ、これらは「ナマハゲ類似行事」の一言で括られがちになっているのが現状だ。(管理人もよく使っちゃってます。この用語)
weblio辞書によると「類似」とは「二つ以上のものの間に互いに似かよった点が存在すること」という意味で、これらの行事がナマハゲに似ているか?と問われれば確かに似通ってしまってる訳だが、一つ一つをつぶさに見ていけば独自のカラーを見つけ出すことができるはずだ。
さしずめナゴメハギなどは、消え去った浅内番楽の名残をとどめる厳粛な来訪神行事、とでも表現できると思う。

いよいよ最後のお宅。いっちょう気合入れていきますかー!


最後のお宅への入来を終え、3時間以上にも及ぶ巡回が終わりを告げた。
「ナマハゲを知る辞典」には、本来は旧暦の小正月に行われていた浅内のナゴメハギ行事が、昭和27,28年頃に大晦日の実施に変わった点を紹介したうえで「能代の浅内地区といっても現在のような自治会組織になるまで紆余曲折があり、分断された集落もある」と記されている。
実際に現在、浅内以外では行われていないし、浅内にしても保坂会長はじめ、たくさんの人たちが行事の継承に最大限尽力していることは容易に推測できる。
また、記事を書いている2020年5月時点で新型コロナウィルス禍は収まっておらず、必死に存続努力を続けている伝統行事・伝統芸能にとっては実に厄介な問題となりつつあるわけで、若い人たちが多く参加していたナゴメハギ行事にとっても先行きは決してクリアではない。
2019年最後の日に無事に行事を終えられたことは、実はかなり素晴らしいことなのかもしれない。

時刻は22時近く。すでに巡回を終えた班が自治会館へ戻っていた。皆が一仕事終えた良い表情をしている。お疲れさまでした!!

室内に役目を終えた面が置かれる。
これは爺面。髭が特徴。翁面と近いような気もするが、もっと滑稽な表情に見える。

面は定期的に作り変えられている。これらの面は10年前ほどに制作されたそうだ。女面。夜中には絶対会いたくない。。。

ナゴメハギの先輩たちも自治会館へ集合し、全員がそろったところで乾杯!みんな満足そうな表情です😄

これから楽しい宴が始まるはず。
2019年の暮れに楽しくもあり、怖くもあり(そして寒かった!)の素晴らしい行事を見せてもらった思いだ。保坂会長とナゴメハギ一行の皆さんに挨拶をして、自治会館をあとにした。
なお、小松さんと宮原さんはこの後なんと大館市まで道祖神の取材に直行するんですと!マジですか!いや~タフだなー。さらにゑびすさんに至っては、ナゴメハギ鑑賞を途中で切り上げて一旦大仙市のご自宅に戻ったそうだ。でその後、元旦早朝に行われる大館市岩瀬の「代野ニッキ」を見るため現地に行く予定。。。もはや言葉が出ません😭😭😭(残念ながら代野ニッキは行われませんでしたが、代野番楽を鑑賞されたとのことです)

自治会館を出た。

ナマハゲのメッカ、男鹿の近くゆえに、気になりつつもこれまで見る機会のなかったナゴメハギ巡回の始終を見届けることができた。
出立祭の厳粛な雰囲気、完全に途絶えてしまった浅内番楽の名残を強く感じさせる衣装と手平鉦・鈴(錫杖?)といった番楽由来の楽器群(かつては拍子木も用いていたそうだ。番楽で使われる「拍子板」と関連があるのでしょうか)、お馴染みの出刃包丁ではなく手斧、そして独特のムードを醸し出す番楽面 - 先に書いたことの繰り返しになるが、「ナマハゲ類似行事」と呼ばれながらも、内実はナマハゲとは全く違う浅内独自の来訪神行事だった。
ナマハゲをはじめとする全国10ヵ所の行事がユネスコ無形文化遺産に登録されたことで、来訪神行事への興味が全国的に高まってきている今日この頃、ナマハゲだけでない、この豊かな伝統文化をたくさんの人に是非体験してほしいと思う。


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