秋田万歳2020

2020年1月18日
今回は3年ぶりの登場となる「秋田万歳」
ネイティブな秋田弁を取り交ぜた太夫と才蔵の軽快なやり取りが面白い、秋田の至宝ともいえる伝統芸能だ。
3年前の初鑑賞以来、秋田市内で定期的に公演会を開いていたことは知っていたが、前回からだいぶ時間も経ったし久々に見てみようという事で、会場となる秋田市大町の民俗伝承館(ねぶり流し館)に隣接する、旧金子家住宅へと足を運んだ。
秋田万歳の概要についてはこちらのサイト(←文化遺産オンラインHPへリンク)で見てください。

今回の公演情報は、管理人がフォローしている「にゃんとこ」さんのTwitterで知った。
可愛いにゃんこのイラストとともに(主に盆踊りをメインとした)全国の伝統行事を紹介されているにゃんとこさん、祝福芸にも造詣が深く、以前に愛知県の三河万歳の様子をツイートされていたので拝見したりしていたが、秋田ローカルの伝統芸能の開催情報まで網羅される、その情報収集力がまずスゴい。さらに言えば、この日の秋田万歳公演にもおいでになられたようで、後日Twitterにその様子をアップされていた。わざわざこの公演のために遠方(←合ってますよね?)から来られたワケで、その行動力もスゴイ!!
余談ですが、にゃんとこさんのHP/Twitterのヘッダー画像は「西馬音内の盆踊り」。全国に数多ある伝統芸能・盆踊りのなかで、秋田が全国に誇る盆踊りをチョイスいただいて光栄な気分です。

当日です。こちらが旧金子家住宅

1月のこの時期だというのに雪が全くない!
もともと内陸部に比べて秋田市内は雪の少ない地域だが、この少雪ぶりは異常。
また、豪雪地帯として知られる県内各地域も今年に限ってはどうなってんだ!てぐらいの雪の少なさで、こののち管理人が足を運ぶ行事にも微妙な影響を与えることになる。

ねぶり流し館受付で観覧料100円を払い、旧金子家へと入る。

前回同様、今回も場内は満員のお客さん
もちろん椅子席は埋まっていて立ち見となるのだが、マジで立錐の余地なし!ようやく人ひとり立ち見できるスペースを見つけて、秋田万歳の登場を待つ。
後日読んだ秋田魁新報の記事によると、約70名の観客が集まったそうだ。大半が年配客だが、若い人の姿もちらほらと見受けられる。

やがて開演。オープニングを高らかに宣言するかのように、万歳師が少しだけ顔見せ

烏帽子をかぶり、扇子を持ち、背中に松竹鶴の図が描かれた直垂を纏った「太夫」と、赤い頭巾をかぶり鼓を手にする「才蔵」の2人が万歳を繰り広げることになる。
ここでちょっとだけ披露されたのは「経文揃万歳」。古式ゆかしい詞と鼓のハーモニーが何やらおめでたい奏に聞こえる。
今日の鑑賞会は「春を言祝ぐ祝福芸の鑑賞会 -秋田万歳の風景を読み解く-」と題されたイベントで、この時期に行われて今年で5回目。
正月気分は完全に抜けきってしまっているが、今日は「春を言祝ぐ」ということで、存分に楽しませてもらいます😄😄😄

この後、ねぶり流し館館長さんのごあいさつに続いて、秋田民俗学研究の第一人者 齋藤壽胤先生のご登場です。

秋田の各種伝統芸能を幅広くカバーされている壽胤先生にとっても、秋田万歳は格別の思いがおありのようで、10分以上もの時間を使って講話が続いた。
- 門付け芸能である(秋田)万歳師はある種の客人(まろうど)神で、才蔵の鳴らす鼓の音とともに家々に福をもたらす(音連れる = 訪れる)存在であるとともに、遊行者(布教や修行のために各地を巡り歩く)のように、各地を放浪して人々の日常生活・生産活動を活性化させる存在でもある -
- 御国万歳の冒頭「御国も栄えて御在す(おわします)」の台詞には「これだけ秋田は繁栄してますよ」の意味が込められていて、本当はそうではない(= 栄えていない)にしても、言葉の力を以ていずれそうなる(= 栄える)と思わせる、これこそが万歳の持つ力であり、言葉で祝福するとはそういうこと -
というご説明になるほど~と聞き入る。
壽胤先生が語っているのは、まさに伝統芸能・伝統行事の本質、深層であり、非常に有益な講話を聴かせていただいた。

現在秋田万歳を受け継いでいるのは、冒頭に才蔵として登場した平川金一さんを代表とする秋田万歳継承会の皆さんで、今日は会員の皆さん8名、計4組が万歳を披露してくれる。早速一組目の登場です。パチパチ👏👏👏


まず披露されたのは「扇万歳」。秋田万歳は表6番、裏6番の計12段で構成されている。
①家建万歳
②経文万歳
③神力万歳
④大峰万歳
⑤御国万歳
⑥双六万歳
⑦扇万歳
⑧御江戸万歳
⑨本願寺万歳
⑩吉原万歳
⑪桜万歳
⑫御門万歳
これらは「儀式万歳」と呼ばれ、格式や品格重視のいわば「お堅い」演目だ。
秋田市教育委員会が編纂した「秋田県無形民俗文化財 秋田万歳」に「儀式万歳12段の詞章は、お経であり、祝詞であり、~(中略)~儀式万歳は太夫才蔵両人のハーモニーの美しさを鑑賞していただき、ムードとして祝賀気分を感じていただく以外に方法はない」と記されているとおりで、詞章(※台詞)を聞き取ろうとか、意味を理解しよう、とかそういう楽しみ方をするものではないのだろう(そもそも無理だろうし)。

続いては大黒舞


秋田万歳には各種演芸、舞、踊りがふんだんに取り入れられている。
大黒舞は土崎港まつりなどでもよく見られるポピュラーなものだが、(小道具として一般的に用いられる)扇子と小づちの代わりに、あや棒(こちらは由利本荘市鳥海町に伝わる「天神あやとり」で用いられてます)2本を操る快活な演芸が披露された。
「秋田県無形民俗文化財 秋田万歳」によると、他にも「秋田音頭」「えびす舞」「つっつき舞」「こっから舞」「ばんば舞」などがレパートリーとなっており、これらは単独の演芸ではなく、このあと紹介する「噺万歳」のなかで披露される位置づけのようだ。

太夫、才蔵がしゃべくりで楽しませる噺万歳へと移行

格調高い儀式万歳と対を成すのが「噺万歳」
「秋田県無形民俗文化財 秋田万歳」では「儀式万歳が永久不易の部分であるとすれば、噺万歳は常に変化する部分、流行の部分である。儀式万歳がお経ならば噺万歳は説教である。儀式万歳が祝詞(のりと)であるならば噺万歳は神楽(かぐら)である」と解説されていて、要はあくまで詞章に忠実に、伝統芸能の薫り高く演じられる儀式万歳とは異なり、当世風のネタを盛り込み、観客を笑わせるために語られるのが噺万歳ということだ。
実際にこの舞台でも、去年の除夜の鐘が107しか鳴らされなかったのは何故?⇒1つは大晦日の前に鳴らされてしまったから⇒カルロス「ゴーン」国外逃亡、と言葉遊びを交えて話を繋いでから、今年は運のついた良い年にしたい⇒「ウン」といえば、新年に食べ過ぎてお腹の具合が‥⇒おもちゃのう〇こを舞台へ置く、といった具合に話を自在に展開していく。
管理人が前回鑑賞時の公演情報が記載されていた「mari*mari」2017年1月13日号で「風刺が効いた即興の笑い話」と紹介されているとおり、太夫と才蔵の滑稽なやり取りが面白い。

今年を良い年にしたい!という流れから、こっから舞で景気づけ


秋田万歳では定番の踊りとなる「こっから舞」
「秋田の民謡・芸能・文芸」には大仙市(旧西仙北町)刈和野で踊られたこっから舞の様子が細かく描写されている。「春秋の農繁期が終わると、待ちかねたように重箱にごちそうを詰め、酒ビンを下げて神社のお堂に集まる。まず、この踊りに使うスリコ木と小形のスリバチだ。お神酒と一緒に山から掘ったトコロ芋を供え、灯明を灯す。(中略)田仕事や暮らしの話など一切しないで、始めからバカ話ばかり。この時だけは日ごろの苦しみを忘れ、陽気になって飲んで食べる。やがて酔いが回って腹一杯になってきたころに、『さあ、始めるべえ』ということになる。気の早い者は、ハシで皿をたたいたり、小皿を打ち合って拍子を取る。(中略)男はスリコ木の元を、女はスリバチを両手に持って、それぞれ股の間にはさむ。唄やハヤシにつれて、スリコ木の先を持ち上げたり、女は腰をかがめてスリバチでスリコ木の先を受けたりする」ということで、本来は舞台芸能ではなく農村でよく見られた宴会芸であり、しかもお下劣な所作の混じる、決して上品とは言い難い踊りだ。
秋田万歳においてはスリコギとスリバチの登場はないものの、扇子を股間に立てて上下させたりの仕草がそこかしこに入る。
「秋田の民謡・芸能・文芸」に書かれている通り、先人たちが羽目を外して馬鹿笑いするための特別な踊りと言えるだろう。

そして儀式万歳の一つ「御国万歳」


会場で御国万歳の詞章を記したプリントが配られた。
御国も栄て御在す 御城造りの結構は 門々な九つ 楼々の其数は玉を連し如くなれば 極楽浄土に異ならで ケ(か)程目出度御城下に名の有る町は 三十六丁 其外数しれず 寺の数は参百三十三なれば 北に当たりて天徳寺 香の煙は雲に上る 何(いつ)も絶ぬ御燈明 光り輝く御霊屋 扨水上には藤倉観音 水下には古四王権現 海の面を詠むれば 天竺の方よりも 綾や錦に帆を掛て 数多の宝を御船に積んで 秋田の湊へ船が着くぞや 誠に目出度候へ
開演前の壽胤先生のご説明通り、秋田の名所がところどころに散りばめられていて、風光明媚な久保田城下の光景が目に浮かぶようだ。
「秋田県無形民俗文化財 秋田万歳」によると、元ネタは御江戸万歳(江戸万歳では「お江戸」と呼ばれる演目らしい)で、江戸の名所を秋田の名所に置き換えた作品であり、儀式万歳12段の中で唯一秋田を題材とした演目なのだそうだ。

1組目の出番が終了。太夫、才蔵のお二人とも万歳を習い始めて日が浅いそうだが、幕開けに相応しい楽しい万歳を見せてくれた。続いては2組目の登場。オープニングで登場したお二人だ。


御国万歳の元となった「御江戸万歳」を披露
秋田万歳は元禄時代(1688~1703)に、三河万歳の流れを汲んで成立したと云われている。
文化12年(1815)の「羽州秋田風俗問状答」に「三河国より常陸へ来たりて、住みてけるが、慶長年間この地へ移り来れりと申すなり。針生清太夫とは代々の通り名なり。烏帽子に松竹鶴亀を染たる水干着て、才蔵はそれらの類より、口利たるもの択び出して伴ふ。大形の広袖厚綿入を着て、浅黄の頭巾也。城へ登りて祝の詞を申し、それより士家の町々を回る」と書かれていて、三河万歳ルーツ説が主流となっているものの、「秋田の民謡・芸能・文芸」には「直接的には他の東北万歳と同じように江戸系である」とも記されているので、はっきりとしたルーツはなく、いろいろな万歳がミクスチャーされたと捉えることもできそうだ。
また、江戸万歳自体が三河万歳をコピーしたものとする説もあるようで、そう考えると三河万歳・江戸万歳双方をルーツとするとも言えるだろう。

噺万歳へと移る。演目は「神田の吉(つっつき舞)」


3年前にも見た楽しい噺万歳だ。
神田の吉つぁんが友人である才蔵宅を訪問、勧められるままに酒(酸っぱい濁酒)を飲んだところ、目が回ってしまい、ほろ酔い気分でつっつき舞を踊る。
舞を終えたところ、目の具合が悪くなってしまったので医者に行ったところ、医者から「これを目尻に塗りなさい」と粉薬を処方される。
ところが吉は「目尻」を「女尻」と思い込んでいて、家に帰って女房の服をたくり上げ無理矢理尻を出させて粉薬を塗るが、同時に女房が屁を放ってしまう。
屁によって粉薬が飛び、見事に吉の目に入った途端に目が完治。吉が「アバ。医者だどて、よぐ仕掛けしたもんだな」と感心して終わるという内容だ。
儀式万歳に比べて、かなりくだけた内容、語り口にもかかわらず正式な詞章がきちんと残されていて、その内容はほとんど才蔵の一人語りであり、全10分にも及ぶ舞台を演じ切るのはかなりの練習が必要に違いない。やはり盛り上がるのは吉が女房の尻に粉薬を塗ろうとする一連のやり取りだ。
「(吉)アバ、アバ。医者の言うにはな、家へ帰ったら『メジリ』さ付けれたど。(女房)んだら、おら家のオドまだ、付けれだいねしか。(吉)アバ。メジリとはせな、女の尻ど書ぐど。誰も見でね。アバ、ケツ出せ!(女房)どごにまなぐの薬、アバのケツさ付けるもだてが!!-アバ、ごしゃでだ- (女房)おら家のオドまだ、どごにまなぐの薬、ケツさ付けで治るもだてがー!。(吉)んでね。なんと考えても字で解釈と言うとな、『メジリ』とは女の尻と書く。誰も見でねがら、アバ!ケツっこのべでければいいねが!(女房)おら家のオド。やめでけれってば!(中略)-ところが吉はさすがに男。アバどご取りつかめで柔道掛げだ。アバ、四つん這いなった。アバの尻、グルリど開げで、手のひらさ粉薬上げで、アバのケツさ付けらんとした時、大変だ、アバなんぼ切ねもんだが『プーッ』とやってしまった― 」



途中で面を付けてのつっつき舞を挟みながら、平川会長の熱演が続く。
会長の甲高く聞きやすい声色ながら、どこかすっとぼけた口調と、可笑しみ溢れるストーリーがとてもマッチしていて、観客も笑いながら吉の行方を見守る。
「秋田県無形民俗文化財 秋田万歳」に噺万歳の演目が紹介されていて、例えば「男鹿の島めぐり」「牛島の四十二の祝儀」「風呂屋」「そば屋」「車引き」「津軽のピン助と美代子」「内町の奉公」「米屋と青物屋」「大阪の豪商へ婿入り」「米屋の娘に懸想してイモリの黒焼きをかける」「乗車中、進行中の汽車を止める法」「オモチャ(玩具)とオモチヤ(餅)」「餅食いと酒飲みの問答」など、すでに題名を読んだだけで面白そうな演目もある。
これらの演目を現在も見ることができるかどうかよく分からないが、「神田の吉」の面白さから想像するに、どの演目も秋田万歳隆盛時には観客の爆笑を呼んだはずだし、現代でも通用する笑いのクオリティを秘めている可能性もある。

「神田の吉」のあとは「扇万歳」で締める。

2組目終了。2017年1月公演のブログ記事化にあたり、3年前に直接平川会長のご自宅に電話連絡して直々に許可をいただいた。
「私はインターネットやらないんだけれども、どうぞどうぞ。いっぱい広めてください」と記事化に快諾いただいたうえ、少しお話もさせてもらったが、優しくほのぼのとした語り口で、舞台から伝わる朗らかさが電話の向こうからも感じられたことが印象に残っている。
これからも、太夫役を演じられた男性ともども健やかに、楽しい万歳を披露し続けてほしいと思う。

管理人が鑑賞していた地点から、目前の通路を臨む。

旧金子家住宅は平成8年に元の所有者から秋田市に寄贈されたのを機に、秋田市指定有形文化財に指定された由緒ある建築物
今回の1月公演以外にも、竿燈まつり期間中にもこの旧金子家住宅で公演が行われているが、万歳のクラシカルな雰囲気が建物の内装とマッチしていて素晴らしい。
秋田万歳は他にもフォンテAKITA内あきた文化交流発信センターなどでも公演を行っているが、旧金子家住宅の土間を使って行われる1月公演は舞台と演者、観客が織りなす空気感が格別の感がある。

3組目の登場です。


双六万歳~噺万歳と続けて披露
「秋田県無形民俗文化財 秋田万歳」には秋田万歳が秋田市太平で、実際に家々を回り、あるご家庭で万歳を披露する白黒写真が掲載されている(おそらく昭和50年代頃と推測)。
秋田万歳の名コンビと称された吉田辰巳氏(太夫)、加賀久之助氏(才蔵)のお二人と世話人らしき男性一人が数人の小さな子どもを引き連れて、雪深いなかを歩いている写真を拝見すると、秋田万歳が重ねてきた歴史をほんの少し垣間見れるようだ。
江戸後期に誕生した秋田万歳は、明治時代に入ってから最盛期を迎えるが、その後は少しずつ衰退。
昭和48年に記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択、昭和49年に秋田県無形民俗文化財に指定され、日本の民俗芸能研究を長く続けられていたタレントの小沢昭一さんが広く紹介するに至り、貴重な伝統芸能との位置づけを獲得したが、それまでは万歳師の職業的・興行的要素が強調されて伝えられてきた感が拭えない。
昭和9年に秋田県図書協会が発行した「秋田郷土叢話」掲載の、小玉暁村氏の論文には「正月の吉例には御屋敷に上ってつとめる風であったものが、自然俗化し、門付け風となり、いやしい職のもののするように思われ気品を下げた」とまで書かれている。
「秋田県無形民俗文化財 秋田万歳」ではこの一文を「上品下品で秋田万歳を評価してはならないし、『いやしい職のもの』は根拠なき悪口である」と断じている。


「秋田県無形民俗文化財 秋田万歳」では、小玉氏の「自然俗化し、門付け風となり~」の一文についても、一考を要するとしながらも「そこで秋田万歳は生々発展した」と新たな見方をしている。
要は家々を回る門付芸能となったがゆえに技量を磨く機会に恵まれ、そのことが秋田万歳の活況を生んだ、という事だろう。
たしかにその通りだと思うし、豪商や名士のお屋敷を回っていただけでは、芸能として洗練されたとしても、本来の「万歳」のあるべき姿が見られたかは大いに疑問だ。
また、秋田県広報協会が平成3~11年にかけて発行していた「ホットアイあきた」通巻378号では「江戸期に城下花立町(現秋田市高陽幸町)の芸能に長けた人々の手に移ると、万歳は花立町の人々に限って行われるようになった。彼らは万歳組合をつくり、組ごとに回る月日、場所を割り振る場所割りや万歳師の資格試験まで実施して組数を厳選するなど万歳師の質の維持に努めた。秋田万歳十二段が、崩れることなく継承されてきたのも、こうした厳しい自主的な組織があったのも一因であろう。この資格試験で、組合から不適格とされた者は座敷万歳(※管理人注 家々の座敷に上がって行われる)をする資格はなく、門付万歳(※管理人注 家々の玄関先で行われる)に終始することになったのである」と紹介されている。
例えば、獅子舞番楽のようにその家の長子のみに継承されるといったような掟はないが、秋田万歳を名乗る以上は半端な芸は見せられない、といった矜持が伝わってくるエピソードだし、そんな彼らの芸を「気品を下げた」と一言で片づける訳にはいかないと思う。

お馴染み「秋田音頭」


賑やかでテンポのよい秋田音頭。門付けが行われていた頃もおそらく大人気だったと思う。
長く親しまれた秋田万歳だが、実際に門付で家々を廻った最後の万歳師 北條貞次郎さんが2018年に亡くなった。
職業としての秋田万歳はとうの昔に消滅したし、唯一の経験者だった北条さんが亡くなったことで、門付芸能としての秋田万歳を知る人もいなくなった、ということになる。
ひっそりと閉じていく姿を呈しているように見えてしまうが、北条さんのお弟子にあたる方々が平川さんをはじめとする、現継承会のメンバーの皆さんであり、決して秋田万歳自体が終わったわけでも何でもない。
「mari*mari」2017年1月13日号には、メンバーの堀井和子さんが、入門講座受講後に南秋河辺地域を中心に約3~40軒ほどの家々を廻り、万歳を披露したことが書かれている。
「若い人は玄関を締めてしまうけれど、お年寄りからは、よく来てくれたと大歓迎を受けます」「去年来てもらって福が来た。孫が大学に合格した。また来年も来てけれ - と喜ばれました」との堀井さんのコメントから、万歳を披露する楽しさや喜びが伝わってくるようで思わずほっこりしてしまう。それにしても、若い人たち!玄関閉めるってなにごとか!😠

ばんば舞


♪ばんば舞は見っさいな~から始まるばんば舞。ローカル色豊かかつ、地域によっていろんなヴァージョンの存在する滑稽な舞だ。
3人の娘を嫁に出したお婆さん(ばんば)が、嫁ぎ先から呼び出されて出かけたところ、嫁ぎ先でとろろをごちそうになる、という他愛もないストーリーだが、とろろの食べ過ぎで下半身に異常をきたしたばんばの様子が事細かに描写されている。
ついさっき「秋田万歳が『気品を下げた』という意見はおかしい!」みたいなことを書いたが、ばんば舞を見るとたしかに気品はない。困った。
東海道五十三次の宿場ほとんど全てが詞章に盛り込まれる「双六万歳」のような高度な演目から、「ピーピーピー」だの「シャーシャーシャー」だの「ニチャニチャ」だの下品な擬音が次々と聞かれるばんば舞に至るまで同じ演者によって演じられる、その振り幅の大きさがある意味気品に溢れている、と言えなくもな‥いや言えない。

吉原万歳で締めます。

愉しく陽気な演目を披露してくれたお二人に拍手👏👏👏
継承会の皆さんは、明徳コミュニティセンターで週二回の練習を重ね、今日の公演や7月最終土曜の秋田市民俗芸能発表会などの本番に臨まれているそうだ。
前回の記事にも書いたように、とにかく儀式万歳などは古語ばかりの難解な詞章で覚えるのも一苦労のはずで、それを人前でカンペなしで披露するなどちょっと考えられない。
おそらくは大変な量の練習を重ねて、今日の日を迎えたに違いない。その努力だけでも尊敬ものだし、これからも楽しい万歳を見せ続けてほしいと思う。

最後となる4組目の登場です。


男性2人によるユニット。御国万歳とともに舞台へ登場
基本的に儀式万歳を始める際には「呼び出し」と言われる両者のやり取りが行われる。
太夫「松竹祝いて、才蔵詰めておるか」
才蔵「いざ太夫様より〇〇万歳お始め候え」
呼び出しの台詞にはほかにも「鶴亀祝いて才蔵詰めておるか」「常盤なる松の緑も春来れば 今一としをの色優りけり 目出度祝いて才蔵詰めておるか」といったヴァリエーションがあり、受ける才蔵も様々な言い回しを使って聴衆を楽しませてくれる。
「秋田県無形民俗文化財 秋田万歳」を読むと、「噺万歳とは断定しがたいが儀式万歳と儀式万歳の間に『くずし』も入れる。『くずし』とは調子を一段とかえることである」「噺万歳とは限定しがたいが、儀式万歳中に、才蔵が、太夫の歌詞とは異質の『茶々』を入れて逆にムードを盛り上げる」といった細かいテクニックについても記述があり、太夫・才蔵がこれらを駆使して客を飽きさせない工夫をしていたことが分かる。

ばんば舞~こっから舞。舞の2連発です。


お下劣ながら、観客が思わず笑ってしまうエッセンスをしのばせる、ばんば舞とこっから舞。
秋田県内にかつては存在していた仙北万歳や横手万歳でも、欠かすことのできないレパートリーだったようだ。
「秋田の民謡・芸能・文芸」に刊行当時、昭和46年頃の横手万歳の近況が記されている。
「横手市松原には明治時代十数組もいたが、戦後は8組16人しかいなかった。保存会(管理人注:万歳芸能保存会)の面々は毎12月15日講習会を開き、元日から七草までを秋田市などの都市部、旧正月から2月いっぱい村々を回り、”物乞いではない正しい万歳”を喜んでもらった。こうした前向きの保存策も、演技者の年齢に勝てず、昭和38年で止まってしまった」とし、その後は横手市役所職員の方が「最後の保存者」として、毎年練習に励みながら、一部の鑑賞者に披露していると紹介したうえで「”♪ヤめでたいな、めでたいな、お国の栄えは‥と新春の町に門立った正月を祝う【ご門開き】”の伝統万歳も、だんだん消え去ろうとしているのだ」と結んでいる。
こうして文章で読むと、伝統芸能の継承の難しさ、歩みが止まってしまうことの痛切さなどが、具体的な形を伴って伝わってくる。
折しも、この記事を書いているのはコロナ禍の真最中であり(外出自粛や移動の制限は解除になったのですが)、秋田万歳に限らず数々の伝統芸能・伝統行事が、私たちが気付かないなかで存続の危機を迎えている可能性があると思う。
コロナ禍の一日も早い収束を願うとともに、横手万歳の終焉のような、悲しむべき事態に直面せずに済むことを祈るばかりだ。

こっから舞、盛り上がってます。


ばんば舞の概要は先にお伝えしたとおりだが、やはりある一定以上の年齢の方々には懐かしさを感じさせてくれる演目なのだろう。
管理人は小さいころに秋田万歳を見た記憶はなく(たぶん見たことないと思います)、それゆえ秋田万歳や各種の舞を新鮮な目で見ることができるが、年配の方々にとっては幼き頃に親御さん、ご家族とともに見た記憶が蘇るトリガーにもなっているのだろう。
秋田万歳が盛んだったころは、人々の生活もそれほど楽ではなく、生きていくのが精いっぱいだったろうし、(秋田県内の)年配の方々と話をすると「小せぇどきの話どが、思い出しでぐもねでぇー」と幼少時代の回想を嫌がる人も結構多い(管理人のまわり限定かもしれませんが)。
そんな人たちにとっても、辛い生活のなかにあって秋田万歳が与えてくれた笑い、家族の笑顔は忘れがたい貴重な良い思い出であって、今日の舞台を当時の追憶とともに楽しんでいるのかもしれない。

最後は扇万歳で締めくくる。


愉しく、息の合った万歳を見せていただいた。こちらのご両名にも拍手👏👏👏
これにて全4組の万歳が終了。どのコンビも、儀式万歳~噺万歳~こっから舞などの宴会用の踊り~儀式万歳といった一定のパターンを踏襲していたように見えたが、厳かな気分にさせておきながら、笑いで落とす、さらにはちょっと下品な舞で観客を刺激する、といった型が重要であり、万歳師個々のパフォーマンスと併せて、演目の組み立ての妙も舞台を盛り上げる要素の一つなのだろう。
ということでオープニングからエンディングまで、時間が過ぎるのを忘れて楽しませてもらいました!演者の皆さん、ありがとうございましたm(_ _)m

そして演者全員で舞台へ登壇

平川会長のご挨拶

会長からは継承会の活動状況に関するお話以外に、会員募集の呼びかけも行われた。
多数の古語が使われた儀式万歳を習得し、噺万歳ではきっちり笑いを取り、こっから舞ではっちゃけた踊りを見せて‥とあれやこれやの高いハードルはあるものの、伝統芸能に興味のある方は是非チャレンジしてほしいと思う。
舞台挨拶が終わり、多くの観客が会場を立ち去る。管理人も万歳の余韻を楽しみつつ、会場をあとにした。

ということで、秋田万歳 - 決して広く知られている伝統芸能ではないものの、今や全国でも数えるほどしか残されていない伝統万歳の一つが秋田に現存していることを考えると、もっともっと注目を浴びて然るべき芸能だ。
幸いにも継承会の皆さんの活発な活動のおかげで、鑑賞の機会はそれなりに用意されているし、もっともっとたくさんの人に知ってほしいし、見てほしいと思う。


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