一日市願人踊り2022

2022年5月5日
今回訪れたのは4年ぶりの訪問となる八郎潟町の一日市願人踊り。ゴールデンウィーク真っ只中にたくさんの観客を集める観光イベントとしても知られているが、昨年・一昨年は中止。今年はJR八郎潟駅前での公演こそ行われなかったものの、一日市神社での奉納や門付け、秋田音頭の牽き山車など駅前公演以外の主要イベントは見事復活!ということで、徐々に行事が復活しつつあるようにも見えるが、油断は禁物。長居はできないと門付けの一部のみ鑑賞することにした。

10時に自宅を出発。9時には一日市神社での奉納を皮切りに門付けが始まるのでかなり遅めの出発とはなるものの、昼休憩を挟んで夕方まで門付けが続くはずなので心配は無用。10時50分に現地に到着。こちらは八郎潟駅前、例年であれば駅前公演を見にたくさんの人が集まるものの今年はこんな様子です😭

念のため、行事の概要を紹介します。
願人踊は毎年5月5日の一日市神社の例大祭で演じられ、各家々を回り一年間の五穀豊穣と豊年満作を祈願する踊りです。各家々の玄関や庭先で踊りを演ずる門付け芸能です。歌や踊りは、三重県伊勢市に伝わる伊勢音頭の流れを汲んでおり、踊りは手と足が同じ方向に出ることから一直踊りともいわれています。(秋田県教育委員会編 「秋田の祭り・行事」より)

早速、一行を発見!


4年前と同様、駅前商店街での鑑賞となった。
八郎潟町史によると、願人踊りの構成人員は豊作礼と音頭あげ1人、踊り子4人、唄い手4人、定九郎、与市兵衛となっていて、この一団がときに共に、ときに二手に分かれて門付けして各家々を回ることになる。また、衣装・装飾について言えば、同じく八郎潟町史には‥
【音頭あげ】黄色のタスキをかけて、結んだ端を長くたらして、白足袋をはく。幣束、大鈴つきの豊作札をもつ。
【踊り手】長襦袢に前垂れをかけ、下襦袢のすそをはしょって小鈴のついた手甲、脚絆をつける。頬かむりをする。
【唄い手】ひろげた傘のふちに小鈴のついた赤糸をたらす。傘の頭に幣束をたて、この中に入って並列する。
とあり、カラフルな一団が踊って歌ってリズムを刻んで、賑やかに門付けをするのがこの行事の真骨頂と言っていいと思う。

いったん踊りが終わると唐突に場面が変わり、お馴染み定九郎と与市兵衛が登場。寸劇が始まる。


踊りの合間に定九郎と与市兵衛が登場するのが、一日市願人踊りの際立った特徴だ。文化遺産オンラインの説明によると「『仮名手本忠臣蔵』の五段目を描いた作品。お金を懐に持ち夜道を帰る与市兵衛が、悪役である斧定九郎に殺され、首に掛けた財布を奪われる場面です」とのことで、実際には陰惨な殺しの場面のはずがここでは可笑しみ溢れた寸劇として披露される。

定九郎、気合い入りまくり

与市兵衛はリラックスモード

対照的な2人の奇妙なやり取りが観客の笑いを誘う。
定九郎「そなたの懐に金なれば、4~50両の金、縞の財布に入っているのをわしゃ見込んできた」
与市兵衛「いづのこまに見だべや、このどろぼうけしめ!」(←「いつの間に見たんだ!このどろぼう野郎!」の意)
定九郎「世間の利子は三分の利子。わしゃ、四分でも五分でも苦しゅうない」
与市兵衛「ええ話だでぇや!」(←もちろん反語「ひでえ話だぜ!」の意)
定九郎が与市兵衛に金をせびる不穏な空気漂う場面が、大げさな芝居の定九郎と、秋田弁を飄々と繰り出す与市兵衛によって見事に中和されている。何度見ても楽しいシーンです😆

踊り手が再登場


結構な数の見物客が見守っていて、みんな願人踊りがコロナ前と同じように見れることを楽しんでいるようだ。また、数台のテレビカメラも入っていたし、踊りが披露されていた酒店前はちょっとした特設ステージのようになっていた(願人踊りと同じぐらい人を集めていたのが、あんごま餅で大人気の畠栄菓子舗さんです)。もちろん見物客は皆マスク着用、幾人かの願人もマスクを着けていたが、頬かむりとマスクが妙にマッチしていてちょっと面白い。


そもそも願人とは下級山伏、修験僧のことを指していて、そういった人たちが芸人として全国を行脚しながら、伊勢・熊野信仰を広めたとされている。八郎潟町史によると、願人のどさ周りはかなりの人気だったらしく「伊勢神宮は皇祖神として庶民の信仰を集め、とりわけ近世の慶安年(1650)~慶応3年(1867)の間は全国から信者があとをたたず、年間200万を動員した年もあったといわれている」そうだ。
その後、従来の踊りに願人踊りの要素を加えて、さらに明治になると忠臣蔵 五段目の寸劇を挿入するなどして、今の願人踊りが形成された訳だ。

移動後、次の場所でも踊る。


願人踊りはいっとき郷土芸能として定着するものの、戦後になってから廃れてしまい、風前の灯火のようになってしまうのだが、一日市郷土芸術研究会が保存に力を注いだ結果、現在まで途絶えることなく続いている。全国的に見ても珍しく貴重な踊りと言われていて、昭和48年には県の無形民俗文化財に指定されるまでに認知度が高まった。さらには遡ること2年前の昭和46年、東京国立劇場で開催された「民族芸能公演」にも出演。そのときの様子について八郎潟町史には「特に国立劇場で2日間にわたって公開された一行14名の願人踊りは、その奔放さが楽しくリズミカルなものであり、『定九郎』には農民のエネルギーが躍動しているなどと『演劇界』『芸術新聞』『日本経済新聞』に賞賛された」と記されている。

再び、定九郎と与市兵衛の熱演


先に書いたとおり、願人踊りに忠臣蔵五段目の場面が挿入されたのは明治になってからの事だが、以前の記事「今戸願人踊り」でも書いたように「日本歌謡研究」なる文書には、初代中村仲蔵が明和3年(1766)に月代鬘、黒羽二重、手足も白塗りの扮装で定九郎を演じる以前の、百日鬘にドテラ着の山賊姿の旧型定九郎が願人踊りに登場する謎について触れられている。要するに、願人踊りに忠臣蔵五段目の寸劇が加わるようになった明治時代には↓のようなスタイリッシュな姿

が一般的な定九郎の出で立ちであり、当然願人踊りの定九郎もこんなかんじであるべきだが、何故かとっくに廃れたはずの恰好で登場しているというのだ。たしかに不思議だし、管理人もオーパーツ的な興味を惹かれていたりする。

スポーツ用品店前で踊る。


現在時刻11時20分。一行は昼休憩を挟んで夕方ぐらいまで各家々を巡回し続けるはずだ。以前、願人踊りのDVDを見たことがあるが、一行に密着したその映像に映し出されていたのは、ハードな踊りの連続に疲労困憊の様子の願人の姿だった。下手するとエアロビと見紛うほどの激しい踊りを朝から夕方まで繰り返すわけなので、そりゃ疲れないはずがない。ユーモラスな動きの裏側で、我々の想像が及ばないほどのタフネスが要求されていたのだ。願人の皆さん、まだまだ先は長いです。水分補給を忘れずに頑張れ~!(`・ー・´)b


春の陽気の中、地元の人たちが笑顔で一行を迎え、そして願人は楽しい踊りと寸劇でそれに応える。特に年配の方々は本当に嬉しそう。3年ぶりに見る踊りに一際心を弾ませたことだろう。そのユニークな衣装と踊りから、秋田の行事のなかでも異彩を放つ存在だし、駅前公演では数千人の観客を集めるメジャーな部類の伝統行事ではあるものの、こうして願人と地元の人たちとが触れ合う輪のなかにいると、この素朴でこじんまりとした雰囲気こそが、この行事の本質のように思えてくる。

20分ほど鑑賞。そろそろ帰ります。

コロナのことも気になるし、午後から私用もありまして‥ということで、ごく短い時間の訪問とはなったが、願人踊りの健在ぶりを確認できてよかったと思う。また、賑やかに商店街を練り歩く一行を見ていると、徐々にではあるものの祭りが戻りつつあることを実感できたし、駅前公演こそ中止となってしまったが、4年前とほぼ変わらない行事風景を見ることができた。来年の完全復活に期待したい。


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