角館祭りのやま行事

2019年9月9日
情緒たっぷりの盆踊りを数多く鑑賞した8月が終わった。
秋から冬にかけて伝統行事の開催数が減っていく時期でもあるのだが、9月初旬~中旬にかけてはそれなりに行事が目白押しだったりする。
そのなかで、おそらく最も規模が大きいであろう行事に今回初めてお邪魔した。
国指定重要無形民俗文化財、そしてユネスコ無形文化遺産でもある、仙北市「角館祭りのやま行事」。角館では「お祭り」といえば問答無用にこの行事のことを指すのだという。

県内では秋田市土崎の土崎神明社祭の曳山行事、鹿角市花輪の花輪ばやしなどともに勇壮な山車行事として知られているし、管理人も5月に秋田市内で開催される「これが秋田だ!食と芸能大祭典」で3度ほど鑑賞したことはあるが、現地角館では見たことがないうえ、それ以前に山車行事特有の難解な作法が結構なハードルとなり、行事の内容をほとんど知らない。
知っていると云えば豪快なやまぶっつけ、通行の優先権をめぐる交渉など断片的な部分ばかりで、こんなんでちゃんと鑑賞できるのかとも思うが、とりあえず最終日となる9月9日(この月は土日も働いていて、たまたま月曜日である9日が休みだったので)に現地に向かった。

当日。祭りは9月7日に始まってから山車行事特有の緩さゆえ断続的に続いているだろうし、どの時間に行って何を見るとか特に決めていなかったので、なんとなく昼頃に自宅を出発して角館を目指した。
1時間ほどで現地に到着。桧内川沿いに車を止めて、どこで何が行われているか全く分からないままブラブラと歩き出す。

「山車に出会えなかったらどうすっかなあ。。。」などと思う間もなく、お囃子が「トコトコ」と聞こえてきた。早速行ってみよう。

細い路地にヤマがドーンと控えていた。今は小休止のようで、皆が歓談中だ。
食と芸能大祭典で見たことはあるとは言え、地元角館で見ると何故か分からないが、一段と迫力にあふれている気がする。
こちらは「西部若者」。あとで調べたところ、今年は全18町内のヤマが曳かれたうえに、それとは別に町内に計5台の置山が配されていたそうだ。
また、例えば土崎神明社の曳山まつりでは「曳山」、花輪ばやしでは「屋台」と呼ばれるが、角館では「ヤマ」と呼ばれるのが通例で、漢字をあてるとすれば「山車(←だしではなく)」「飾山」ということになるらしい。

ヤマが動き始めた。総重量が4~5tにもなるため、足回りも頑丈に見える。

wikipediaからまるまる引用してしまうが、ヤマは以下のようなつくりになっている。
人形 - 前人形は「水屋(みんじゃ)」と呼ばれる少し斜めになった部分に乗っている。人形は前方に一体から三体乗せる。前に配置される武者人形は見どころの一つであり、毎年、歌舞伎の場面や、歴史上の人物を用いた場面が用いられる。
後ろ人形 - 曳山の後ろには2~5個の酒樽か人形が乗せられている。この人形は特に「送り人形」・「送りっこ」などと呼ばれ、滑稽な人形が多い。かつて地元の高校が夏の甲子園秋田予選決勝に進出したときは立派な球児がお目見えしたこともあった。
もっこ - 人形の後ろ側に標山が載っている。黒木綿で作られたその部分を「もっこ」という。
欄干 - 舞台の周りを囲っている。欄干には紅白が巻かれている。昔は木を朱色や白く塗ったものであった。
舞台 - 曳山の前部は小さいながら舞台になっており、踊り手がそこで手踊りを披露する。また、先導が曳山を移動させる時にもそこに乗る。
後部 - 後部にも小さいながら舞台のような感じになっているが、ここには酒やそのほか曳山で使用する道具などが乗せられている。しかし、もっぱら乗っているのは次世代を担う小若たちである。小若の特等席であるともいえる。



県立図書館で借りた、富木耐一さんという方の著書「角館の祭り 神と人間の接点から」に、もっこ(山)や岩、草木を配する理由が書かれていた。
ヤマは神の乗り物です。一時的に降臨する神ですが、この短い間でも、神に場違いなところへきたと印象を悪くされると困りますから、できるだけ、神が常在しているところに近い環境を作り、楽しく過ごしてもらおうと考えました。古代の人の心のやさしさが伝わってきます。でも、神が常在するところとなれば、だれも見ていませんから頭の中で描くよりありません。そこで、ヤマには考えられるだけの山中の風景を思い浮かべ、それを抽象化して組み立てるという方法とるようになったのです。
「山」というのがそもそも自然の様子を模した依り代という意味であり、それを台車にのせて動かす「車」となることから「山車」となる、という本来的な意味がまさしく具現化されているのが角館のヤマ。「名は体を表す」とはまさにこのことだ。
なお、今回の記事を書くにあたって参考にさせていただいた「角館の祭り 神と人間の接点から」だが、日本古来の祭りの意義を丁寧に説明したうえで、現在(1982年刊行)の角館の祭りの詳細な作法、置かれている状況を紹介し、なおかつ的確に分析・批評されている良著だ。機会があればぜひ一読することをお勧めしたい。

中心街方面に少し歩くと、今度は別のヤマが。


こちらは西勝楽町
ヤマは少し進んでは止まって、前方に作られた舞台で手踊りが披露される、といったかんじ。当初想像していた通り、ゆっくりと時間をかけて進行する。
もともと、角館の祭りは西勝楽町内にある成就院薬師堂のお祭りとして始まっていて、江戸時代中期の文書にもそのことが記録されている。
それが明治時代に入って、明治新政府が「神仏分離令」を発布したのを境に、従来の薬師堂のお祭りが角館神明社のお祭りとして実施されることになる。
このあたりの変遷の状況については、写真集「角館のお祭り」の寄稿文のなかで富木さんが「この年(管理人注:明治7年)から角館の祭りに神明社が関わるようになった。薬師という現世利益、病気を直したり心の痛みを和らげてくれるという素朴な信仰で続けられた祭りに、突如〈お伊勢さん〉という異質の神が顔を出し、政治力学的に中心に据えられた。誤解のないように書き加えておくが、角館の人たちが〈お伊勢さん〉と呼ばれる神明社を尊崇していなかったというのではない。6月15日をお祭りの日として、燈籠をたくさん灯して神を迎えるという『燈籠祭り』だったのが、信仰している人たちの気持ちに関係なしに、お薬師さまの神輿がお伊勢さまの神輿になるという変わりようだった」と記述されている。
その後、民衆の意向を無視する形で成立した神仏分離令はわずか5年で停止されることとなり、それを機に薬師堂のお祭りとしてのやま行事が再開することとなり、薬師堂・神明社両者のお祭りとして今日に至っている。
という経緯から、9月7日は神明社の宵宮、8日は神明社の本祭、薬師さまの宵宮、9日は薬師さまの本祭、というスケジュールになっているそうだ。

優雅な踊りが披露される。


独特のお囃子に合わせて様々な踊りが披露される。
お囃子方は大太鼓、小太鼓、鼓、笛、摺鉦、三味線で構成されていて、人形を仕付た下の僅かなスペースで演奏を行っている。
ヤマの進行中の演奏曲目は、仙北市作成の祭りのパンフレットからの抜粋すると‥
寄せ囃子 - ヤマが動くことを知らせる囃子
上り山囃子 - 神明社・薬師堂参拝など目的地に向かう際の囃子。「大山囃子」とも呼ばれる。
下り藤 - ヤマの方向転換時の囃子
道中囃子 - 「下り山囃子」とも呼ばれ、目的地からの帰路での囃子
神楽囃子 - 「やまぶっつけ」の際に奏でられる囃子で「ぶっつけ囃子」とも呼ばれる
となっている。ほかにも余興(踊りに合わせて演奏される)曲として「秋田甚句」「秋田おばこ」「おやまこ」「おいとこ」「秋田音頭」「組音頭」が、奉納曲として「拳囃子」「二本竹」があるが、「角館の祭り 神と人間の接点から」によると進行中の曲としては他にも「狐拳」「六法」「小山ばやし」があったが、これらは聞かれなくなったとしたうえで、その原因をヤマの動きが変わったためではないか、と推測している。

ヤマが進み始めた。


ヤマを曳く人数があまり多くないようで、えらい難儀なように見える。
それでも僅かづつではあるものの前進を続ける。
土崎みなと祭りでは曳山を「ドドドドドドドドド!!!」と一気に曳く場面もあるが、角館のお祭りではそういった曳き方はほとんど見られなかった。
そしてヤマを曳く際の掛け声は「ヨーヤサー!」。正しくは「ヨーイサノヤー!」というらしい。
お囃子の演奏とホイッスルの音が入り混じって、古き良き日本の祭りの風情を醸し出す。



先に書いたように今年のお祭りでは計18台のヤマが出た訳だが、どこをどういう風に進行するものかよく分からずにいた。
とりあえずヤマ同士が相対する形になったら、やまぶっつけを行うんだろうぐらいに思っていたが、今回の記事化にあたりいろいろ調べると詳しいことが分かってきた。
まずは大まかな運行スケジュールだが‥
9月7日 - 神明社参拝
9月8日 - 佐竹北家上覧 / 薬師堂参拝 / 観光用やまぶっつけ
9月9日 - 各町内運行
初日は各町内を出発して神明社をまっすぐ目指すのに対し、8日の薬師堂参拝については町内廻りとの兼ね合いから翌9日にずれ込んでしまうことも認められているようだ。
また、「角館のお祭り 神と人間の接点から」には運行の基本ルールとして‥
①前へ進むこと
②進行コースを重複しないこと
③上り・下りの区分を明確にすること
④ヤマが出会ったら”交渉”すること
⑤目的を達したら納めること
とある。ここで注意が必要なのは「上り」「下り」の概念。「角館のお祭り 神と人間の接点から」では「目的に向かって進んでゆくのが上りヤマ、目的を果たして帰るのが下りヤマと単純に考えるべきです。~中略~ 神明社へ向かう、薬師神社へ向かうときが上りヤマ、参拝を終えると下りヤマになります。二日目の”お屋敷(佐竹北家)”への行動も、お見せするまでが上り、見せ終わったら下りとなります。町内を廻っている時も、町内境から張番(管理人注:各町内単位で設けられてヤマの運行を取り仕切るところ)の間は上り、張番から町内境までは下り、この場合、どちらから入っても条件は同じです」と説明が付けられているが、著者の富木さんが「単純に考えるべきです」とわざわざ記しているように、「上り」「下り」の捉え方については、各人の感覚に左右される傾向にあり、一筋縄でいかないものがあるようだ。

さらに中心地へ進んでいく。


このあたりは岩瀬町。数多くのヤマが運行中だった。
一段と祭りの雰囲気が濃くなり、初秋の爽やかな空気の中お囃子の音色が気持ちよく響いている。
先に「上り」「下り」の捉え方が難しいと書いたが、ヤマ同士が向き合った場合にこの点が非常に重要になってくる。
基本的には「上り」と「下り」のヤマ同士が相対した場合には「上り」が通行の優先権を持つ(ただし上りのヤマが無条件で通過するのではなく、本当にお互いが上り⇔下りの関係なのか、下りヤマがどのように道を譲り、上りヤマがどのようにその脇を通過するのかなどを交渉するそうだ)。
問題となるのは互いに上り、あるいは下り同士だった場合で、そこで本格的な行動交渉を行うことになり、それがまとまれば話し合いの結果に準じてすれ違うことになるが、もし交渉が決裂した場合には「やまぶっつけ」で決着をつける、といった流れになる。

少し移動して立町へ。こちらには大きな置山が道の両側に置かれている。

置山は薬師堂、神明社、立町、角館駅前の4個所に配されている。
高さ20mほどになるこの巨大な2体の置山は「橋掛り」で繋がれており、置山や橋掛りのうえにも人形が置かれている。
曳山が祭りの顔となる前は「ヤマ」といえばこのタイプの置山が主流だった。
明治43年に角館町内に電線が張られ、それまでの「担ぎやま」がその高さがネックとなり、徐々に曳山へと変わっていき(もともと担ぎやまの運行自体がかなりハードだったらしい)、大正時代には曳山へと全て切り替わったそうだ。
それでも往時をしのばせるような置山がそびえたつ姿は、この祭りがいかに角館の人たちに大切にされているかが伝わってくるかのようだ。

駅通り若者。活気にあふれてます。


豪快な祭りの花形はなんといっても若者たち
「角館のお祭り 神と人間の接点から」にはヤマの製作や運行に関する費用の捻出の難儀さが事細かく書かれていて、その一切を町内の若者たちが苦労しながら取り仕切る点に言及されている。
同著が刊行された当時に比べて、重要無形民俗文化財の指定を受けた現在では費用の調達が幾分かは楽になったと想像するが、それでも若者たちが中心となって祭りに向けた準備をすることには相違ない訳で、外からでは分からない苦労も当然あるだろう。

交渉が行われているのだろうか。


人形の表情が豊か。また、衣装も素晴らしい。
江戸時代文政年間より作られ始め、角館出身の画家 平福穂庵(ひらふくすいあん)も制作していた伝統ある人形で、現在は地元角館の人形職人により作られたり、自町内で作ったりとさまざまなようだ。
歌舞伎の大見得を切る場面が題材とされることが多いそうだが、ヤマに乗せられた人形は神が現世に姿を現したものとされ、「角館のお祭り 神と人間の接点から」によると「ヤマぶっつけの際、ヤマから人形が落ちたら、そのヤマは祭りから退散するということが守られています。また、人形が乗っていないヤマはヤマではないということも承知しています」とのことで、単なる歌舞伎人形という以上にその存在感は大きい。

ここが張番。

張番は祭り期間中だけ設置される簡易的な小屋のようなものだが、「降臨した神が立ち寄る場所、神のお旅どころ」ということで、入口に飾られる「矢来」や、入口中央に置かれる張番の名札を支える「エングレ(野芝。地鎮めの意味があるとされる)」、エングレに差される「ネズコ(灌木)」などを置いて決められた手順で製作される。
また、中に張られている幕については古くから受け継がれているものを使用する町内もあるようだ。
おそらく土崎みなと祭りの御旅所、花輪ばやしの詰所と同様の意味を持つものとは思われるが、これほどまで古くからのしきたりに沿った作りなのはとても貴重だと思う。

さらに移動。横町の通りに出た。
商店や飲食店が立ち並ぶ目抜き通りで格段に賑わっていて、数台のヤマが見られる。

手踊りの披露


先に書いたように、「秋田甚句」「秋田おばこ」「おやまこ」「おいとこ」「秋田音頭」「組音頭」といった踊りが場面に応じて舞われる。
年齢は、下は小学生ぐらいから、上は成人女性に至るまでがヤマへ乗っていて、衣装は紫色の紋付に白足袋、または秋田おばこらしいカスリの着物の二種類となっている。
正統的な日本舞踊と言っていいぐらいの洗練された踊りで、ほかにも扇子を持ったり手拭い踊りが披露される。
角館のお祭りの踊りはおやま囃子とセットになっているイメージだが、「秋田の民謡・芸能・文芸」によると、角館はかつて仙北地方における流行歌の発信地のような場所であったとして、数多くの民謡が歌われてきた土壌があると説明されている。
そのような土地柄ということが大いに影響しているのだろう、踊りも細部の所作まで十分に意識された洗練されたものであり、そのことが勇壮な山車行事との鮮やかな対比として存在感を主張している気がする。

武家屋敷方面へ少し移動。こちらには北部丁内若者のヤマがスタンバイ


やまの後方に続く武家屋敷通り
この先に8日にヤマが上覧される旧石黒(惠)家がある。
どうやら佐竹北家の家臣だった石黒家(伝統あふれる佇まいの武家屋敷で、超人気の観光スポットです)の分家ということで、旧石黒(惠)家で上覧が行われるようになったらしいが、佐竹北家の当主といえば「殿」こと、佐竹 敬久県知事。
いろんな方のブログを拝見すると実際に佐竹知事が上覧していた(している?)ようで、ヤマの関係者もさぞかし誇らしかったことだろう。
また、佐竹知事的には当然知事の立場ではなく、佐竹北家第21代当主として上覧する訳だが、「殿様のお勤め」ということで一応公務に当たるんでしょうかね?(当たらないでしょう)

再び大通りに戻る。


2台のヤマが対峙していた。
東部若者と七日町丁内。ヤマが向かい合う形を取っていて、ことの次第によってはやまぶっつけが展開されるかもしれない、ということでヤマの周囲をたくさんの人が囲んでいる。
やまぶっつけということで言えば、初日(7日)は各町内ともに神明社を一直線に目指すことになるので、ヤマ同士が相対することはないが、2日目には場所と時間と参加町内を決めてのやまぶっつけ、3日目には下りの町内同士が相対する機会が増えるために特に日が暮れてからやまぶっつけがしきりに行われるらしい。
ということで、管理人含めた多くの観客がこれから始まるかもしれないやまぶっつけに期待を膨らませているのだった。

交渉が始まった。


「角館の祭り 神と人間の接点から」で、富木さんは「交渉は祭りの花」と断言されている。
曰く「上りと下りの条件が双方ともはっきりしている場合は、それほど問題にもなりませんが上り同士、あるいは下り同士だと、場合によっては一方が不利な条件で交差しなければならないことになります。同じ状態で出会った場合にこそ、この交渉の上手、下手によって態勢が大きく変わる場合がありますから、この駆けひきが大事です。交渉の楽しさは、どのような方法で相手の弱点をつき、言いくるめて自分のヤマを有利に導くかにあるわけです。絶対的に有利な条件の相手に対し、対等に交差するところまで持っていった時の愉快さ、完全に有利な立場にありながら部分的にはひかざるを得なかった時のくやしさ、これが角館の祭りのゲーム的な要素の最大の醍醐味です」
豪快なヤマ行事にはそぐわない、相手方と論陣を張りあうこの場面こそがお祭りの見どころというのはかなり驚きではあるが、県立図書館で読んだ、西部曳山の責任者を務められた今野則夫さんという方の「お祭り一代記 祭りを駆け抜けた男」を読むと、ヤマの巡行ルート決定に関する苦労話と、他町内との白熱した交渉の場面にページの大半が費やされている。
富木さんが書かれている通り、祭りに参加する立場から見ると、この祭りの真価は山車行事の豪快さとは違うところにあるようだ。

緊張感溢れる場面が続く。


パンフレットを見ると、今年の観光用やまぶっつけは計8個所で行われたようだ。
時間と場所が決まっていることで悠長に時間を取れない観光客には好都合だが、実際には観光用やまぶっつけが終わったあとや、特に3日目に当たる9日夜にやまぶっつけが多く行われるらしい。
ところで管理人が以前からよく分からずにいたのだが、「やまぶっつけに勝敗はあるのか?」という点だ。
調べたところ、一方のヤマが相手のヤマのハナ(舳先)を抑え込む、じりじりと押し込むといった状況になり、優位に立つことはあっても、それを以て〇〇町の勝ちとはならないようだ。
「角館の祭り 神と人間の接点から」では「曳き分かれ」と表現していたが、引き分けに近い形でやまぶっつけを終え、その後の再交渉を経て両者がともに動いて、すれ違う形でお互いをやり過ごすのがこのお祭りの了解事項らしい。
ただ、この点も両者の力が拮抗している前提の作法なので、例えば一方のヤマがワンサイドに押し込んだなどの状況であれば、明らかに勝ち負けが分かる訳なのでその場合には違った対応を取るような気もするし、ヤマの全重量を相手のヤマにかけることで相手方の前の車の心棒が破損(もっとも富木さんは心棒について「そんなに折れるものではありませんが、折れるんだぞと信じているところに祭り独特のムードがある」と説明されている)した場合には「死にヤマ」になる、との考え方があるため、この場合には勝敗が決するというか、むしろ無効試合みたいなかんじになるのではないかと想像する。

交渉を行っては引き下がり、また交渉に臨むという動きが幾度となく繰り返される。


「角館の祭り 神と人間の接点から」には「名乗りが終わると『〇〇町内の曳ヤマは、上りヤマの状態で張番(あるいは薬師神社又は佐竹家上覧)へ向かっていますので、道をあけて頂きたい』と申し入れます。相手は、『確かにそのようにお見受けしました。ヤマを寄せますからお通り下さい』と答えるのは、最終的な時点と見極めたあとのことで、最初から素直には受けないのが常道です。上りヤマといいながら、はやしが上り山ばやし以外の曲を奏していたり、コースに疑問がある時はそのことを指摘し、相手も下りヤマと同じ条件であることを主張します。もし、指摘することがなくても、一度の交渉で認めることは弱すぎますから『申し入れよく承知しました。ヤマに帰って相談をした上で、こちらから返事をします」と、ひとついなします」と、ディベートを繰り広げているかのような交渉の具体的な様子について記述されている。
ヤマの巡行コースについても、あの道をすすめば〇〇町内と鉢合わせるだろうからそれは避けておこう、それよりも××町内の方が与しやすいのであの道を進もうといった具合に、まるでスーパーマリオか、パックマンかといった感じだし、やまぶっつけについても少しでも優位に立つための細かいテクニックがある訳で、そう考えると「豪快」「勇壮」という単一の言葉では括れない、複雑で重層的お祭りだということが分かる。
これが角館の男たちが熱狂する「お祭り」の本当の姿なのだと思う。

長い交渉の結果、やまぶっつけは回避され、東部若者が七日町丁内の右側を通過していく。


ヤマをぶつけるにしても、通過するだけにしても必ず交渉が行われる訳だが、すれ違いざまにヤマ同士が接触するようなことがあれば、そのときだけは交渉なしで即座にやまぶっつけが始まるらしい。
ということもあり、七日町丁内、東部若者ともに完全に相手をやり過ごすまではどことなく緊張の様子がうかがえる。
そして無事に両者が通過。東部若者のヤマが緊張感から解き放たれたように、皆が掛け声をあげてグイグイとヤマを曳いていた。
角館の祭りについてはほとんど知識のない管理人ではあるが、交渉の様子を間近で見れて本物の祭りの場面に立ち会えた実感を得ることができた。
富木さんもやまぶっつけについては一家言おありだったようで、「現在では、少なくても最終日に一度はぶつけるということが常識になっていますが、ヤマはぶっつけるためにあるのではないのですから、同じぶつけるにしても、必然性がある状況を作り出してからやることです。どうも必然性を作り出せず『お客さんも大分集まりましたから、ひとつぶっつけませんか』という交渉があるようですが、こうなりますと、ヤマの目的がぶつけることにあるということになってしまいます。ヤマがぶつかるのは、目的ではなく、結果なのです。ここのところを間違えると、角館の祭りは無意味になってしまいます」と記されている。
さすがに40年近く前の著書なので、最新の状況とは乖離している部分もあるとは思うが、角館の祭りの本質は富木さんが主張されるところと何ら変わるものではないのだろう。

周囲に多数集まっていた観客も三々五々移動を開始する。
本来であれば、日が暮れた後に提灯の明かりに飾られるヤマの美しさと、豪快なやまぶっつけを鑑賞してこそ「角館の祭りを見た」ことになる気もするが、このへんで角館を後にすることにした。


時刻は17時半。9月に入り、一日一日と陽が短くなってきているものの、外はまだまだ明るく僅かに夏の熱気も残っているようだ。
今日が祭りの最終日であり、祭りの終わりとともに深い秋へと季節は進んでいく。

特に目的もないうえ、祭りの知識をほとんど持ち合わせないままのそぞろ歩きではあったが、町じゅうが祭りの雰囲気に溢れていてとても心地よい時間を過ごすことができた。
また、七日町丁内と東部若者の交渉の始終にはこの祭りのリアルが感じられたし、「角館のお祭り 神と人間の接点から」を読んだことでヤマが知的ゲーム的側面を持つことも知った。
けっして派手なやまぶっつけだけではない、この祭りの奥深さの一端に触れた思いだ。
とはいえ、やはり豪快なやまぶっつけを現地で見てみたい!というのが、偽らざる本音でもある。
角館の男たちが燃えたぎる、あの瞬間を見るために、またいつか角館に足を運ぼうと思う。


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