刻参り

2018年7月28日
今年は8月を前に盛夏が訪れたようだ。
気温は連日35度前後を記録し、暑いなあ、、、と思うとともに冬の訪れも早いのかなあ、などと余計な心配までしてしまう。
そんな暑いさなかに由利本荘市岩城亀田の子供たちの行事を鑑賞した。
「刻参り」と書いて「ときまいり」と読む。
簡単に言えば、子供たちによる奉納行事なのだが、その由来は謎に包まれている。

秋田の祭り・行事」には「亀田藩時代、藩校長善館で学ぶ家臣の子弟たちが一刻(2時間)おきに、学問の神様菅原道真を祀る白山神社に習字を奉納したことから始まったと伝えられています」との説明とともに、子供たちが灯籠を持ちながら行進している写真が添えられている。
何故、習字を納める奉納スタイルが灯籠行列に変わったのか、その経緯はよく分からないし、灯籠行列と言えばすぐ思い浮かぶ七夕行事との関連もよく分からない。
分からないことだらけの行事ではあるが、とりあえず行事の行われる7月第四土曜日に岩城亀田を目指すことにした。

当日 - 猛暑といっていい天候のなか、現地に向かう。
スカッと快晴という訳でもなく、少々雲が多いが、それでも蒸し暑いことには変わりない。
行事開始時間ジャストとなる15:30に出発地となる岩城亀田の天鷺城前、高城センターに到着
子供たちがもう出発する模様!急いで後を追う。


子供たちの行列が白山神社を目指す。その数、およそ20人以上
子供たち以外にも保護者の皆さんを中心とした世話人数名が同行
あとで聞いたところによると、本来は岩城亀田の行事なので旧亀田小学校の児童が参加していたが、現在では岩城地区全域から子供たちが参加しているそうだ。
旧亀田小学校は平成26年に道川小学校、松ヶ崎小学校と合併して岩城小学校となった。
ということで、今日参加しているのは岩城小学校の児童たちということになる。
そして、子供たちの行進だが、現在は計2回に渡って行われる。
すなわち、今行われている行進と、日暮れ近くになってから行われる行進の2回があり、ともに同じルートを進む。

行列は高城センターを出発後、岩城亀田の街中を抜けて白山神社を目指す。城下町の名残をとどめる街の様子


この行事の詳細を記した「秋田県の祭り・行事 - 秋田県祭り・行事調査報告書」によると、往路と復路のルートが違っていて、かつ以前は参加する子供の数が多かったので二手に分かれて行進していたそうだ。
また、同書によると2つのグループで行列を作っていた頃に「行列が行き合うとよく喧嘩をし、ついに灯籠によって怪我人が出たため提灯の角をなくして現在の形にした」とされている。
たしかに能代役七夕で見るような直方体の田楽灯籠ではなく、将棋の駒の形をしている。
えっ?灯篭の形を変えるとかじゃなく喧嘩を止めさすほうが先じゃないですか?と考えてしまうが、子供の行事とは言え「祭りにケンカはつきもの」という不文律をあらためることはできなかったということか。

「秋田県の祭り・行事 - 秋田県祭り・行事調査報告書」に「明治30年代までは亀田町の士族の子供と外町六町(今町・新町・大町・中町・肴町・大工町)の町人の子供とに分かれて刻参りをしていたが、次第に六町の子供だけの行事となった」と記されていて、秋田市の竿燈まつりなどと同様に商人や職人によって行事が発展、継承されてきたことがうかがわれる。
そして今は岩城じゅうの子供たちが参加する行事となった訳だ。

無事白山神社へ到着
ここで休憩をとって、皆で冷たいものを口にする。

今日は白山神社のお祭り(宵宮)の日でもある。
元々この行事は7月24日に行われていたが、それは白山神社の例祭が7月25日、宵宮が7月24日に行われていたことによる。
そして本来であれば、ここで最初の奉納が行われるが、今日はあまりに暑いということで1回目の奉納はカットしてそのまま行進を続けることになった。
世話人の方に教えていただいたところによると、神社は小高い場所にあるので行き着くのがちょっと大変なのだそうだ。

写真左側に写っている帽子をかぶった男性。管理人は父兄のお一人だと思っていたが、実は岩城小学校の校長先生だった。

小学校の校長先生というと、恰幅の良い体格で八の字のヒゲを生やし「エッヘン!」と威張っているようなイメージだったが、こちらの校長先生はスリムで若々しく、子供たちへの接し方も実にフレンドリーで、管理人の思い描く校長先生とはまるで真逆なのだった。
まあ、八の字ヒゲで「エッヘン」とか言ってる先生なんか管理人も実際に見たことないんですが、、、

校長先生の「ときまーいり!」の掛け声に続いて、子供たちが「ときまーいり!」と呼応する。
思っていた以上にコール&レスポンスの間隔が短く、これを繰り返しながら歩くのは体力的にかなりきつそう。。。


時折、校長先生から「声小っちゃいぞー!もっと声出そう!」とゲキが飛び、子供たちもそれに応えるように灯籠を高く掲げて「ときまーいり!!」と大声を放つ。
「秋田県の祭り・行事 - 秋田県祭り・行事調査報告書」には「参加希望の小学生に特別な資格はいらないが、行列について歩ける体力と気力があるか否かが問われ‥」と記されているとおり、傍から見ている以上に根気と体力が必要な行事なのだ。
灯籠を掲げ続けながら、ほとんど休みなく掛け声を発さなければいけない。それもこの暑さの中で!
子供たちにとっては十分すぎるぐらいの修練の場でもあるのだ。

折り返し。今度は往路と違うルートで宿となる高城センターを目指すことになる。

神社近くの白山会館に到着
先に書いたように、今日は白山神社例祭(宵宮)の日でもあり、会館外に地元の皆さんが屋台を出していた。


子供たちが飲み物で喉を潤す。
手の込んだ料理はなく、地元の皆さんの手作り感あふれる食べ物ばかりだが、それがまたいい。
子供たちも行事が終わったあとのかき氷とくじ引きをとても楽しみにしているらしい。
また、この日は岩城亀田に伝わる餅菓子「うちわ餅」も用意された。
現地ではうちわ餅を見つけることができなかったが、後日調べたところではみたらし団子を短くしたような形(餅をつぶした形がうちわに似ているらしい)で、白山神社の例祭に合わせて屋台で販売されるそうだ。

地区内の数箇所に刻参りのポスターが貼られていた。
A4サイズの小さなポスターで、こちらも手作り感があふれている。

因みにこの行事に参加するには、期日までに申込みを行って灯籠を自分で用意する必要がある。
灯籠は先輩のお下がりを使わせてもらうこともあれば、自分でオリジナルのデザインを作って型に張り替えて使ったりと様々だ。
アニメのキャラクターがデザインされている灯籠も数多く見られたが、これらのほとんどは子供たちがパソコンを駆使して自分でプリント、作成したものらしい。

飲み物で体力を回復した子供たちが再出発

出発から1時間ほど経過


出発点となった高城センター近くを通過して、今度は町の西側方面を巡行
家々から住人の皆さんが出てきて、刻参り一行を出迎えて声援を送る場面が多く見られた。
以前は幾度となく白山神社への参詣が行われたらしく、現在の運用とは大分違っている訳だが、それでも岩城亀田の人たちが幼少の頃より慣れ親しんだ行事であることに違いはなく、その声援にも力が入っている様子だ。

広い道路の県道69号線を外れて、小路に入る。
この辺は行事の中心となった外町である大町・中町にあたる場所なので、おそらくはいにしえから受け継がれているルートの一つなのであろう。

再び大通りへ出る。県道69号線はここ岩城亀田が終点であり、今度は国道341号線へ出ることとなる。


「秋田県の祭り・行事 - 秋田県祭り・行事調査報告書」には調査当時における進行ルートが以下の通りに記されている。
往路:宿-新町-今町-下徒士町-上徒士町-神社前分岐点より二手に別れる-愛宕町旧参道下・愛宕町岩城クラブ-合流して天満宮まで
復路:天満宮-上徒士町-鷹匠町-今町-新町-大町-蔵小路-大工町-最上町(畠山宅)で折り返し-大工町-肴町-中町-大町-宿
google Mapで調べてみたが、概ね現在のルートと重なるもののところどころ相違するところもあった。
時代を重ねるとともに少しずつではあるが、変遷し続けていると考えてよさそうだ。

西側の折り返し地点となる妙慶寺へ到着、小休憩をとる。


ここでは子供たちに飲み物、アイスクリームが振舞われた。
妙慶寺と言えば亀田藩主岩城家の菩提寺として知られるとともに、戦国時代のヒーロー真田幸村の息女「お田の方」が建立した寺としても有名だ。
実は管理人は池波正太郎の「真田太平記」全11巻を読破し、同著をドラマ化したNHK水曜時代劇もTSUTAYAで全巻レンタルして鑑賞するぐらいの真田一族ファンで、以前ここを訪れて供養塔などの石碑に真田家家紋 六文銭が刻まれているのを見たときには興奮が止まらなかった。
そういったことで、行事の真っ最中だというのに、この時ばかりは真田太平記の登場人物 草の者「お江」になった気分で「御屋形様。只今戻りまいた」などと心の中でつぶやいたりしたのだった。(真田家でいう御屋形様は幸村の父 真田昌幸公になるわけですが、そのあたりは気にせずに。。。)

気を取り直して(?)出発

このへんから校長先生に変わり、子供たちが代る代る先頭に立って掛け声を出し始めた。
「秋田県の祭り・行事 - 秋田県祭り・行事調査報告書」に書かれているように、行列を先導し、下の者に指示を与える役を担うことで統率力や積極性や養うにはもってこいの役割だ。
それと同時に、疲れからいっとき小さくなってしまった「ときまーいり!」の合唱が再び盛り返してきた。
もうすぐ1回目の行進が終わる安堵感もあったと思うが、自分たちの中から選ばれた先導役(リーダー)を盛り立てなければ!との美しきフォロワーシップ精神もあったに違いない。

そして天鷺城へ帰還。何だか「城門を開けーーいっ!!」ってかんじでカッコいい。


時刻は17時10分
1時間40分に渡る1回目の行進が終わり、これから子供たちは夕食(カレーライス)を食べて1時間ほど休憩を取った後、2回目の行進に出発することになる。
とりあえずはおつかれさまでしたm(_ _)m
管理人もちょっと休もうということで国道7号線沿いのコンビニに車で移動し、2回目の開始を待ったのだった。

時刻は18時10分
そろそろ2回目の出発かな、ということでコンビニから天鷺城へ戻ったところ、ちょうど子供たちが出発準備に追われているところだった。


1回目の行進では先頭と殿(しんがり)の大提灯を世話人(大人の男性)が持っていたが、2回目は地元の中学生が担当
そして、2回目には小学校入学前の児童も参加した。
これで陣容は整ったわけです。

いざ2回目の出発!みんな頑張れ~!


まだまだ暑さは残るものの、1回目の行進のときに比べれば格段に涼しく、歩きやすくなった。
管理人もタオルで汗を拭う回数が減ってきた。
人数が増えたこともあるのだろうが、子供たちの声も1回目に比べてでかくなった気がする。

この行事は、神社の宵宮から翌朝にかけて子供たちが一刻(2時間)ごとに、宿から神社まで往復して参拝したことが起源であり、一刻ごとに繰り返し参拝することから「刻参り」の名称がついたものだ。
そして子供たちは刻参りを行うことで、天神様にあやかり、学問向上や書の上達を祈願するのが慣わしとなっている。
このように本来は子供たちの学業に関する行事ではあるが、忍耐力やチームワーク、仲間を思いやる気持ちなど社会生活上必要なスキルを養う機会でもあったと考える。

元気に行進を続ける子供達だが「ときまーいり!」の連呼にさすがに飽きてきたのだろう、いつの間にか掛け声が「ひまーわり!」に変わってしまっていた。
気づいた校長先生、世話人の皆さんから「ちゃんと『ときまーいり』って言って!」と注意を受ける。
子供たちも気分変えたいよね。気持ちは分かるよ。

そして白山神社下へ到着し、ここで灯籠に火が灯される。

灯りのついた灯籠はこんなかんじです。

世話人の方から「灯籠に点火したときのお参りの様子は綺麗だよ」と聞いていたのだが、日は沈んでおらずまだまだ明るい。
ということで、灯籠の灯りが目立っておらず、火が点いているんだかいないんだかよく分からない。
これが本当の昼行灯??

とにもかくにも皆の灯籠に火が点けられて、これから奉納が始まる。
これまで疲れから灯籠をぶらぶらと持ちながら行進する子もいたが、これからはきちんと真上に向けて持たなければ、火があっという間に灯籠に移ってしまうだろうから非常に危ない。


神社へと続く参道は未舗装で階段などもなく、結構な急坂で登るのに一苦労
「秋田県の祭り・行事 - 秋田県祭り・行事調査報告書」にも「山の麓から神社までの道のりは狭くて坂がきついものである」とわざわざ書いているぐらいだ。
たしかにこのかんじであれば、1回目の参詣はパスして正解だったなあ、などと考えていたところ‥

んーーー!?何だか、どんどん景色が美しくなってるんですけど!


竹林の淡い緑色と、夕暮れ間近の空のやや赤みがかった水色、そして灯籠のロウソクの柔らかな炎色が溶け合って信じられないぐらいに美しい光景になっている。
ちょっと大げさな表現だが、この世のものとは思えないぐらいの美的世界
この行事の道中で、これほどに綺麗な景色を見れるという情報を全く持ち合わせていなかったのでかなりびっくりした。
うっとりするというよりも興奮してしまった。

おおーすごかったなあ、、、と思っていたら白山神社に到着しました。

子供たちが神社の周りを3周します。


先に書いたようにこの日は白山神社例祭の宵宮でもあり、社殿にはたくさんの氏子の皆さんが揃っていて、子供たちを激励している。
「秋田県の祭り・行事 - 秋田県祭り・行事調査報告書」によると氏子は上徒士町、下徒士町、鷹匠町、愛宕町の皆さんから成っているらしい。
また、本来刻参りは富田字板敷にあった天神社の祭礼日に行われていたが、明治42年に天神社と白山神社が合祀したため、白山神社へ参詣することになったそうだ。

宮司さんのお祓いを受ける。ここで一旦灯籠の火が消された。

宮司さんから子供たちへ「しっかり勉強します、と神様に約束してください。そして、宿題や家の手伝いをしっかりとやって楽しい夏休みを過ごしてください」と言葉がかけられた。
ここ岩城亀田は亀田藩二万石の藩政時代から、文武両道を掲げた向学意識の高い地域だったが、その地域性をギュッと凝縮したかのような厳しくも優しいお言葉だった。

神社をあとにする。
さっきの美しい風景をまた見れるわけだ。ワクワク


これぞBeauty of Japan - 夏の夕暮れのひとときに幻のごとく、美しい風景を目にして思わず息を飲んでしまう。
この日秋田でもっともフォトジェニックだったのは、この時間のこの場所だったに違いない。
昼行灯などと失礼なことを思ってすいませんでしたm(_ _)m
ただひとつ残念なのは、この美しさをカメラに収めるべく居合わせたのが技術なしセンスなしアイデアなしのへっぽこカメラマン管理人だったこと
風景写真家の皆さん、プロアマ問わず来年は是非岩城亀田に足を運んでこの素晴らしい情景を激写してください!
そしてSNSを駆使して世界中に拡散してください!

一行が通過したあとの参道

参詣前にこの景色のことを管理人に教えてくれた世話人の方が「ね?綺麗だったでしょ?」と尋ねてきたので、思わず「はい!すっげーキレイだったっスよ!」と運動部の高校生みたいな口調で興奮気味に答えてしまった。
でも、本当にそれぐらいの感動を呼び起こす風景だったのだ。

行進は続きます。


時刻は19時になり、さすがに薄暗くなってきた。
それと同時に灯籠の明かりが徐々に浮かび上がり、この行事が佳境に入ってきたことを告げているかのようだ。

そして白山会館で休憩


行事は20時に終了する予定であり、その後子供たちは三たびここを訪れて、かき氷とくじ引きを楽しむはずだ。
「まだくじ引きやっちゃダメだよお!」と校長先生が皆に呼びかけていたが、我慢できなくなった小学校入学前の子たちがくじ引きに列を作ってしまう。
で、それに対してくじ売りのおじさんも「おっ?どれにする?」などと応じてしまっていて、もう気持ちは行事後に飛んじゃっているみたいだ。

出発


暗さが度合いを増して、いよいよ灯籠の灯りが綺麗にあたりを照らし始める。
この雰囲気は昨年鑑賞した能代市二ツ井の駒形のネブ流しにも通じる、素朴な華やかさを湛えた、この時期の風情を伝える貴重なものだと思う。

灯籠の灯りが美しい。

かつての亀田藩が有していた学問を尊ぶ気風を、現在の子供たちから直接感じ取ることはなかった。
それでも、結構な長丁場であるこの行事を愚痴ひとつこぼさず、先導役の指示に従って遂行するということは、実は結構素晴らしいことではないだろうか。
この行事の発祥の地である長善館の規条は「尊卑の礼を守り、長幼の序を慎むこと。喧嘩は戒め禁ずる。(以下省略)」というものであり、子供たちの日常の生活を律する厳格なものだ。
管理人が気づかなかっただけで、今日の子供たちには亀田藩が育んできた矜持がDNAとしてしっかりと刻み込まれていると思う。


駒の形の灯籠には「王将」「飛車」と墨書きされているものの他に、アニメのキャラクターがデザインされた絵柄も多い。
ただ「七夕」と書かれた灯籠を見ることはなかったし、おそらくこの行事は七夕行事(やネブ流し行事)とは異なる種類の行事だと思う。
では、どのように書を納める行事がこのような灯籠行列に変わったのか?
起源については「秋田県の祭り・行事 - 秋田県祭り・行事調査報告書」でも「刻参りは近世既に行われてきたとはいうものの、始められた年代は定かではない」と記されているだけで、はっきりとした記述は見当たらない。



日中の暑さが消え去り、夕闇の時間も終わり、あたりはとっぷりと暗くなる。
子供たちもさすがに疲れが隠せないが、夜という魔物の成せる技なのだろうか、不思議と元気いっぱいのようだ。
普段は静まり返る通り沿いの住民の方々も、わざわざ家の前に出てきて子供たちを出迎える。

やはりよく分からないのは、この行事の起源
白山神社に習字を奉納していたのが、何故灯籠行列にすり替わったかということだ。
管理人的には神社祭礼の宵宮から翌日にかけて2時間おきに書を納めた、という点に謎を解く鍵があると考える。
夜間に白山神社へ向かうとなると、周囲は真っ暗で絶対に提灯が必要だったはずであり、奉納の際に携行した提灯の並ぶさまが現在の行事の原型になったのではないだろうか。
そして習字を奉納するという、本来の行事の意味がだんだんと薄れて、田楽灯籠の灯りの美しさを愛でる行事として変貌していったと想像する。
この推理は我ながらいい線行ってんじゃないか?とも思うが、根拠も裏付けもないし、ましてや証明のしようもない訳で、実際には全然違うのかもしれない。真相やいかに

妙慶寺へ到着、最後の休憩を入れる。

行事の起源についてまだ考えている。
県立図書館で読んだ「岩城町史」には、起源どころか行事に関する記述が一切なかった。
行事が現在も続いているということが重要なのであって、どのように生まれてきたかなどはそれほど重要ではないのかもしれないが、何故か気になってしまう。
こればかりは答えなど出ないし、今後信頼性のある文献などが発見されないかぎり、永遠に謎のまままだろう。
この行事はいずこより参ったのでしょうか!?なにゆえ書を納める行事がかく相成ったのでしょうか!?お江には分かりませぬ。教えてくだされー、御屋形さまー!!

妙慶寺を出発


ここまでくれば完全にラストスパートだ。
最上町~大工町~肴町~中町~大町と続く目抜き通りに、元気いっぱいの掛け声が響き渡る。
時刻はすでに20時過ぎ
2度目の行進には実にまる2時間を要した。
習字を奉納していた頃は、ルートが現在のそれとは異なると思うが(2時間おきの習字の奉納に2時間かかるってあり得ないし)、奉納できるぐらいの立派な書をしたため、暗くて怖い夜道を歩いて神社へ向かう。それも2時間おきに。
子供たちの教養、勇気、根性を試す、知のトライアスロンみたいな行事だったと思う。

間もなくゴールです。あと一息、頑張れ~!!


写真では真っ暗になっているので分かりづらいが、これでゴール。到着です!
どこからともなく思わず歓声が上がる。
子供たち頑張った、えらい!!

夜の天鷺城

できれば城門を開けて、松明に火をつけながら「ドン!ドン!」と太鼓を打ち鳴らして出迎えて欲しかった。
というか、真田に引っ張られてこんな余計なことを考えられるぐらいなので、まだまだ管理人は元気なのだろう。

お城前に皆が集まったところで、校長先生より解散の挨拶
子供たちは体育座りして真剣に言葉に聞き入っているが、行事の終わった開放感、待ちに待っていたかき氷、くじ引きへの期待感など嬉しさが溢れ出てしまっている。
みんな疲れてはいるが、それ以上に笑顔が目立つ。
文武両道、質実剛健の地、岩城亀田の子供たちよ!最後まで凛としていなさい!なんて言いません。思いっきりはじけちゃっていいぞおー!本当にお疲れ様でしたー(^^♪

子供たちが白山会館に向かうのを見届けて、管理人も天鷺城をあとにした。

1・2回目合わせて正味3時間半に渡り、行事を鑑賞した。
鑑賞前は灯籠行列の美しさが行事の目玉かと思っていたが、白山神社参道の竹林の美しさに息を飲み、戦国の乱世に一筋の光芒を放つ真田家への思いを掻き立てられるという、様々な感情が呼び起こされた行事だった(極私的ではありますが)。
そして、子供たちの無邪気な行事であるにもかかわらず、その起源は謎に包まれているという深遠さも素晴らしい。
通り一遍の、平面的な行事ではないのだ。
あらためて秋田の伝統行事の奥深さ、底力を思い知った一日だった。


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