2019年8月17日
先の記事、雄物川町の大沢盆踊り鑑賞後に訪れたのが今回取り上げる西馬音内の盆踊り。言わずと知れた日本三大盆踊りのひとつであり、秋田を代表する伝統行事だ。
8月16~18日の3日間で西馬音内本町通りに10万人以上の観客を集め、全国各地から集結した踊り手たちによって優雅に踊られる様はまさしく真夏の夜の夢。
このブログでも開設以降毎年取り上げていて、今回が4回目の記事となる。
もはや説明不要なほどに伝統行事、盆踊り好きな人たちに認知されているものの、念のため羽後町観光協会HPのリンクを貼っておくので、よく知らんという方はそちらをご覧いただきたい。
なお、日本三大盆踊りの他の2つは徳島県の阿波踊り、岐阜県郡上八幡市の郡上おどり。実は管理人、7月初頭に出張にかこつけて郡上八幡市へ行き、踊りの実演が行われる郡上八幡博覧館を訪れた(三大盆踊り繋がりで郡上おどりも大好きなんです)。
4つの踊り(かわさき・春駒・やっちく・猫の子)を鑑賞、至福のひとときを過ごしたのだが、その際に実演者の女性から「わざわざ秋田から来たんですか?秋田と言えば西馬音内の盆踊りですよね!?お互い頑張りましょう!」とエールを頂いた。はいっ!!頑張りましょう!俺、西馬音内の関係者でも何でもないんですが。。。
さて西馬音内の盆踊り当日。大沢盆踊りをあとにしたのが20時過ぎ、出羽グリーンロードを南下し、羽後町内へ入る。
羽後町役所駐車場に車を止めて会場へと向かう。二万石橋を渡るとまもなく会場だ。
時刻は20時40分過ぎ。本町通りに到着、お~踊ってますなあ⤴⤴
踊りは19時半に始まり、開始まもない時間はあまり踊り手が出て来ず、時間が経過するとともに増えていくのが通例だが、すでに多くの踊り手が繰り出していた。
昨年同様、初日にあたる16日は雨天のため、羽後町総合体育館での開催となった。
風情に欠ける体育館での踊りを回避した踊り手たちが、2日目の今日は踊りまくりますよ~と初っ端から本気モード全開で参加しているに違いない。
ちょっと鑑賞したところで、20時50分から10分間の休憩に入った。
踊りの輪の中に間隔を空けていくつかの篝火が置かれる。
横手地方の盆の風習「おじゃれ」を思わせる、祖先を迎えるための依代のような存在であり、西馬音内の盆踊りを象徴するアイテムだ。
西馬音内のご出身で、秋田の民俗に関する詩作を数多く発表された小坂太郎さんの著書「西馬音内盆踊り わがこころの原風景」には、小坂さんが詠まれた数篇の詩が掲載されているが、必ずと言っていいほど詩のなかに篝火が登場する。
小坂さんが幼い頃に見た盆踊りの風景と篝火がシンクロしていて、篝火の炎が遠い日の記憶を呼び起こす触媒になっているのだと思う。
21時になり、踊りが再開。まずは「がんけ」。いつもはスーパーバザール付近で鑑賞しているが、今年は趣向を変えてみようとかがり火広場の丁字路付近に移動
「彦三頭巾」を被った踊り手
さすがに全国に誇る盆踊りだけあって、県外の方が西馬音内の感想などを書いているブログなどを読むことが多いのだが、顔に黒い布をかけて踊りに興じる様子は結構怖く映るようだ。
今でこそ管理人は見慣れてしまっているし、頭巾をたくり上げると普通の人間の顔が表れるワケで、とりわけ怖いものとは思わないものの、全国的に見ると他にも頭巾で顔を隠す盆踊り(= 亡者踊り)として熊本県八代市の植柳(うやなぎ) 盆踊り、島根県津和野町の津和野踊りなどがあるが、それらが目・鼻が露出する頭巾なのに対し、西馬音内はご覧のように顔全体が隠れる頭巾。
たしかにかなり異様な風体といわねばなるまい。
壮観な踊り風景
黒一色の彦三頭巾と対照を為すカラフルな端縫い衣装
その艶やかな美しさは西馬音内を象徴する衣装として今や全国の盆踊り女子の憧れの的となっているが、元々は西馬音内でも古くから大切に保存してきた家の者のみが着ることができる、希少な踊り着だった。
現在では、さすがにあまりに古い端縫いは着用に耐えられなくなっていて踊りの場で披露されることはないものの、8月の第一日曜日に本町通りで開かれている、藍と端縫いまつりでそれら貴重な衣装を見ることができる。
音頭が始まった。
音頭の際に唄われる地口は必ず「時勢はどうでも 世間はなんでも 踊りこ踊たんせ 日本開闢 天の岩戸も 踊りで夜が明けた」から始まると決められている。
世の中なんか関係ない、踊り明かそうぜ!と高らかに宣言する内容だが、日本神話に記されているエピソードを持ち出す教養の高さと、「踊りこ踊たんせ」と韻を踏む可愛らしい秋田弁が入り混じった傑作で、西馬音内を象徴する地口として親しまれている。
もともとは昭和6年に懸賞募集した際に一等賞に輝いた作品で、作者の矢野泰助さんは他にもがんけの「お盆恋しや かがり火恋し まして踊り子 なお恋し」「月は更けゆく 踊りは冴ゆる 雲井はるかに ササ雁の声」といった秀作も残されており、まさしく真の才能を持った詩人だったのだろう。
矢野さんは入賞から2年後の昭和8年に10代の酌婦と心中し、僅か33年の生涯を閉じることになるが、「西馬音内盆踊り わがこころの原風景」で小坂さんが「残された作品は不朽である」と書かれているとおり、自らの命と引き替えにその素晴らしい作品群に永遠の生命を吹き込んだかのようだ。
妖艶な振りが美しい。
独特な音頭の振り
起源は上方とされる振りだが、昭和10年4月に日本青年会主催の「第9回全国郷土舞踊民謡大会」への出場決定を機に踊りを再構築、各人バラバラだった振りを統一して、現在に通じる「魅せる」盆踊りへの一大転換を行うこととなる。
振りを決めるにあたっては、古老から聞き取りをした古い踊りから長所を取り入れて基本の型を作ったそうだが、どの部分をどのように取り入れてどのように組み合わせるかは、当時の人たちのセンスに依る訳で、そういった意味では優れた感覚の持ち主でないと、現代においても美しさが際立つ西馬音内の振りを残せたかは疑問だ。
先の矢野泰助さんしかり、昭和10年に踊りを再編した方々しかり、個の才能を存分に発揮した成果が今でも西馬音内の根幹を為しているのだ。
演奏が「とり音頭」へと変わる。
振りは音頭と変わらないものの、流麗ながら複雑なメロディの「とり音頭」。長尺の節を持つかなり高度な曲で、六小節の音頭に対して二十四小節もあるそうだ。
管理人も幾度となく、とり音頭を耳にしているはずだが、未だにメロディを覚えきれていない。
「音頭」のほうはシンプルかつ朗らかで、農村風景を想起させるような旋律なのに対し、とり音頭のほうはテクニカルな演奏が相まって、複雑極まりない振りにさらに難解さを上乗せするかのような旋律だ。フォークロックだと思って聞いていたら、いつの間にかプログレになっていた、とかそんなかんじ。
皆さんノってます。
地口が多彩だ。
♪ドンと響いた 櫓太鼓に 集まる踊り子は 馬音の流れに 産湯をつかった 綺麗な嬢ッコだぢ
♪大太鼓小太鼓 笛に三味線 鼓に小鉦コ 五拍子揃えて 音頭かげだば 町中に鳴り響いた
♪踊るて跳ねるて 若いうちだよ おらヨに年いけば なんぼ上手に 踊ってみせだて 誰も見る人ねえ
こうして字面で見ると、踊りのエッセンスやユーモアがギュッと凝縮された佳作ぞろいだ。
西馬音内以外の県南各地の盆踊りでも地口が多数披露されるが、西馬音内でよく歌われている地口は節を伴わない、独立した作品としても十分成立しそうだ。
「西馬音内盆踊り わがこころの原風景」には、西馬音内だけが持つ文学性について「当地は伝統的短詩型、俳句の文芸的土壌が厚く、藩政時代から連歌や前句付けが盛んで、大正・昭和初期には柴田紫陽花(柴田果)や三輪杉村などの優れた俳人が活躍した」とし、その系譜から先に紹介した矢野泰助さんのような才能ある詩人が誕生した、と記している。
そのような地域性があってこそ、地口の8-8-9-8-8-9調にもすんなりと馴染むことができたし、文学の薫り溢れる地口が量産されたと考えられる。
一糸乱れぬ踊りの列
もちろん、エロ系地口も大充実
♪おら家のお多福 滅多にないこと 鬢とて髪結った お寺さ行ぐどて 蕎麦屋さ引かがて みんなに笑われた
♪西馬音内言葉 初めて聞たれば 何たらやらしぐね えっぺなばでぎねえ びゃっこなばやんか ンガだてんでねがしょ
文学性は微塵もないものの、作品としてよくまとまっている地口ばかりで聞いていて楽しい。
エロ要素が巧妙に隠されていたり、古い秋田弁が使われていたりで一聴してどういう内容か分かりづらいものが多いが、中にはかなりストレートに表現した作品もあり、それが披露されると観客席から「アハハハ‥」と笑い声が聞こえることもある。
これらの地口には、秋田県人全般に見られるシニカルな気質が下地にあると思う。
秋田の方言で言うところの「やすめる」(多分「冷やかす」とか「馬鹿にする」とかの意味)かんじに近い、自分のことはさておいて他人を冷笑する、かなりイヤな性質だが、秋田の人であれば「あーあのかんじな」と理解できるんじゃないだろうか。
再びがんけへ
お囃子の演奏が哀愁を帯びたものに変わり、奔放な地口の代わりに格調を感じさせる歌が唄われる。
音頭を「陽」とすれば、がんけはまさしく「陰」。念仏踊りとの関連性も指摘されている踊りで、音頭の陽気さや朗らかさは感じられず、亡者を偲ぶかのような幻想的な雰囲気のなかで踊りが続けられる。
「がんけ」の名称については、「西馬音内盆踊り わがこころの原風景」によると「仏教伝導の『勧化』(仏門に入ることを勧める)が変化したものという説、また、願解、俗に言う願ほどき(※管理人注 願い事の成就をもって願い事をほどくこと)という説、さらに「雁形」(雁が空を渡る姿を踊りから連想した)という説などいろいろある。今は亡き郷土史家柿崎隆興氏(元西地区)は、仏教用語の『願生・化生』に由来する説であった」と記されていて、はっきりとした理由は分からないとされている。
ただし、現在では振りのなかで右足を軸にくるりと一回転する所作が輪廻転生を表現したものとされていて、本来の意味の「来世も姿を変えて、この世に生まれたいという願い」を具象化した所作との解釈が成立することから「願生・化生」説が真説とされる傾向にあるようだ。
厳かな雰囲気の踊り
がんけは別名「甚句」とも呼ばれている。
ここでいう甚句は即ち「秋田甚句」のことで、鹿角市毛馬内の毛馬内盆踊りで披露される鹿角甚句とは「似て非なるもの」のようだ。
そのあたりの伝播の流れについては分かりづらいところが多いのだが、秋田魁新報が昭和46年に発刊した「秋田の民謡・芸能・文芸」によると「甚句に『秋田』『鹿角』と付いたのは、比較的後世だろう。古い呼び方は地名なしで仙北でジンコであり、鹿角で甚句唄だ。両者は同じ系統であることはもちろんだが、色合いが若干違う。~中略~(鹿角市八幡平に伝わる甚句について)この唄は青森県上北、三戸、岩手県二戸、九戸などに残る盆踊り唄「ナニャドヤラ」と同形を見せる。つまり、北奥州一円の踊り唄の曲調だったようだ。~中略~ これが角館、西馬音内にはいると急激に変化し、三味線、スリ金、ツヅミ付きの騒ぎ唄になる。元はあったであろう原形がくずれ、明らかに円熟調が残ったと見られる」とのこと。
そして、西馬音内に入ってきた甚句は従来のレパートリー(「揃た揃たよ 踊り子揃た 稲の出穂より サーサなお揃た」や「押せや押せ押せ 下関までも 押せば港が サーサ近くなる」などの作品)に、先に挙げたような文学的素養あふれる作品を加えて、独自の進化を遂げて今に至るということのようだ。
いよいよ妖しさを増す篝火
「音頭」と「がんけ」が交互に踊られる。
すぐに曲が切り替わる場合もあれば、踊り手の疲労軽減のため、少しの間休憩が入る場合もある。
そんな休憩時間を利用して、この踊りのためにわざわざ神奈川県から当地を訪問し、当ブログでもたびたび紹介させていただいたtnweugo1612さんと再会。
管理人は丁字路近く、(tnweugo1612さん御一行が拠点としている)赤川呉服店前あたりに陣取っていたので、すぐにtnweugo1612さんを見つけることができた。
例年通り16~18日の3日間に渡って踊り続けられるそうで、そのエネルギッシュさには脱帽しかない。
エネルギッシュといえばもう一人。13日の東成瀬村田子内盆踊りでお会いしたふじけんさんとお連れの方も、当然のように踊られていた。お二人は湯沢市の岩崎盆踊りで踊ったのちに西馬音内へ移動して踊られているそうで、今日は文字通り盆踊りのハシゴ状態。
さらには、盆オドラーとして全国に名を馳せている大ちゃんこと佐藤智彦さんも参戦中。なんと当日朝4時まで郡上おどりに参加したのち、西馬音内へ来られたそうだ!疲れてないはずはないが、それでも大満足の様子でメチャクチャ楽しそう。みんなタフだわー💦
踊りは続く。
近くで見ていると、踊り手の息遣いや何気ない仕草が手に取るように分かって面白い。
真剣そのものの踊り手もいれば、振りに自信がないのかちらちら周りを確認しながら踊り続ける人などさまざまだし、ホーホー隊(がんけのときに「ノリツケ、ハダコデ、シャッキドセ!ホリャ!」と一際声を張って踊っている男子チーム。丁字路付近にいれば必ず出会えます)のエンターテナーぶりも素晴らしい。
見ていていいなあ、と思うのは編笠に端縫い姿の女性の踊り手が、優雅に踊る姿。
踊りが固くても良くないし、逆に日本舞踊のごとくシナを作りすぎても良くなく、適度な上品さと優雅さの漂うぐらいが良いとされていて、中にはまさしく理想的な踊りを見せてくれる熟練の踊り手もいらっしゃる。
では、そういったレベルの高い踊りを見せる踊り手が「西馬音内を極めているか?」となると、また別の高いハードルがある。
盆踊りの行われた日から少し経ったある日、NHKの某番組で歌手&ダンサーとして活躍中のある芸能人の方が西馬音内を訪問されていたのを見た。
で、西馬音内といえば盆踊りということで、その方も踊りを教わって挑戦。さすがキレッキレのダンスを得意としているだけあって「これ難しいなあ~」と言いつつも見事踊りをマスターされていたが、現地の年配女性から「踊りを覚えたからって踊れるようになったとか、そんなもんじゃないんだよ」とか、そんなようなことを言われていた。
少なくとも、管理人の目にはきちんと踊りこなしていて、基本の所作どおりに踊っていると映ったのだが、これはどういうことなのだろうか?
小坂太郎さんの「西馬音内盆踊り わがこころの原風景」は、かつてこの地が大凶作に見舞われ、多くの死者を出したこと、そして生計を立てる手立てとして幼子の身売りが相次いだことから書き始められている。
今では昔話として語られるに過ぎない話ではあるが、昭和の初め頃には現実的な問題としてそれらが起こっていたのだ。
また、羽後町は横手盆地特有の豪雪地帯でもあり、現在においても生活の労苦がついてまわる地域でもある。
小坂さんは同著で「長い冬の雪国なればこそ、短い夏の篝火はもえさかる。ほぼ半年近く雪にとざされる暮らし、山すそ近く住むものは、ときには大雪や吹雪と命がけの戦いをいどんで、身も心もふるいたたせてきた。長い歴史の上でも、北東北は寒冷の地で凶作・飢饉が多く、また封建制の支配もきびしかった。そうして押さえつけられてきたものをはねとばし、一気に踊りで発散させてきたのではなかったか。踊りへの打ちこみのはげしさは、民衆の暮らしの切実なねがいの表現としての性格が、他の地域にすむ人たちよりも、強かったことを物語るものではないか」と記されている。
また、大正時代に盆踊りが風俗を乱すものとして官憲の介入を受けたときには、地主・小作が一体となって抵抗したことにも触れられている。
要は単に娯楽以上の存在、生きるための手段として盆踊りがこの地で受け継がれてきたということだろう。
数年前に訪れた藍と端縫い祭りの際に、湯沢市から嫁いできたという女性から聞いた話を思い出す。
「私なんか何十年も前に西馬音内に嫁いできて、ずっと盆踊り踊ってるんだども、未だに『本当の踊りでねえな』って言われるんだがら」
そう。本当の踊りではないのだ。というか、現代の豊かな暮らしの中で、本当の踊りを踊れる人はすでにいなくなったと思う。
今の踊り手たちが出来ることは「本当の踊りを踊る」のではなく、「本当の踊りに近づける努力をする」ことじゃないか、という気がする。
西馬音内含む羽後町が辿ってきた悲哀の歴史を知り、先人たちの苦労に想いを寄せ、決して表層だけではない深い精神性に共感しつつ、少しでも本物に近づこうと懸命に踊り続ける - その矜持こそが現代に生きる踊り手に必要な条件であり、盆踊りを通じて西馬音内のこころに触れる手段なのだと思う。
踊りはまもなく終わろうとしている。
今年は2時間強の鑑賞となったが、例年は19時半の踊り開始から23時、あるいは23時半(最終日にかぎって23時半まで踊られる)まで目一杯鑑賞するのが常だ。
それほどの長い時間鑑賞していると鑑賞疲れを起こしてしまい、逆に無の境地というか、妙な陶酔感というか、踊りの列を見つめたままボーッとしてしまうことがある。
小坂太郎さんも少年時代に似たような体験をされたようで、このあたりの情景を「終わりに近づき最高潮に達すると囃子のリズムは急に速くなり、踊り手たちは独楽のように回りつつ踊った。~中略~ 踊る者も見る者も、樹木も草も川の流れも、恍惚として地霊と交わっているひとときだった。はっと気がつくと、周囲にはもう見物人はいない。少年の私はひろり帰り道をたどる。旧暦の八月、月ははるかに傾き時おり初秋の風は肌にしみる」と描写されている。
踊りが終わりに近づくにつれ、寂しい感情が湧く部分もあるが、この盆踊りは終わりの到来とともに得体の知れない何かが場を支配するのだろうか、自分でも説明しきれない感覚に陥るのもよくあることだったりする。
時刻は23時。フィナーレへ
お囃子方と踊り手、そして観客が一体となりフィナーレを迎える。
長時間に渡った踊りを締めるのに相応しい盛り上がり風景は感動を呼び起こさずにいられない。
管理人的には今年の西馬音内は終わりを告げたことになるが、踊り手とお囃子方の皆さんは明日の最終日も頑張ってください!
tnweugo1612さん、ふじけんさん、佐藤さんたちに挨拶したのち、6月の青森県新郷村のキリスト祭りで初めてお会いして以来、ちょいちょい連絡を取り合っていた宮城県気仙沼市在住のSさんともお会いした。
彦三頭巾姿で踊られていたSさんも当然のように3日間連チャンの参加。しかもこのあと宮城方面に戻って仮眠をとったのち、翌日は秋田市雄和へ行って大正寺おけさを鑑賞ののち、夜に再び西馬音内へ来て最終日の踊りを披露するんですと!はあ~。誰も彼もタフすぎて言葉出ません。。。
会場の後片付けが始まった。フィナーレの盛り上がりが嘘のように静まり返った本町通りをあとに、管理人も帰路に着いた。
ここ数年、欠かさず通い続けている西馬音内。今年も例年通りの素晴らしい踊りを見ることができた。
お囃子と踊り手、観客と会場が一体となって祖先の霊を迎えるかのような荘厳かつ幻想的な空間と、秋田の短い夏に命の炎を燃やし尽くさんとばかりに踊る歓びがないまぜになった雰囲気はやっぱり抗し難い。
数年前までは参加人数が増加の一途を辿っていて、達者な踊り手もいれば、そうでない踊り手もそれなりに多いという玉石混交の状態だったが、近頃はレベルが徐々に均一になってきているような気がする。
踊り手の皆さんが、少しでも本当の踊りに近づけるよう陰ながら応援するとともに、管理人もこのブログを通じて、踊りの素晴らしさと、その奥底に潜む深い精神性を伝えていきたいと思う。