勝平神社地口絵灯籠祭り2022

2022年5月13日
今回は秋田市保戸野にある勝平神社の地口絵燈籠祭り
毎年5月12・13日の2日間に渡って神社参道に多くの絵燈籠が飾られる、素朴で美しいお祭りだ。仕事終わりにふらっと立ち寄れる気軽さもこれまた良いところで、今回が3度目の訪問となる。

本祭当日。時刻は19時40分ぐらい

神社近くの駐車場に車を止め、勝平神社へと向かう。ごく弱い雨が降っているが、ほとんど気にならない。境内に入ると例年同様たくさんの絵燈籠が飾られている。


「秋田県の祭り・行事 調査報告書」によると「地口絵燈籠祭りといわれるものは、その時代時代の生活の様相や政治、経済、文化、教育などを庶民の心情で風刺したもので、庶民の本音をあらわした落首のようなものである」と書かれていて、事実この日も絵燈籠の作者たちが日ごろ気にかけている様々な事柄を題材にした作品が多数並べられていた。おそらく製作に取りかかかった頃にはホットな話題になっていた、2022年北京冬季オリンピックやロシアによるウクライナ侵攻などが目についた。

題材はさまざま


お子さんが頑張って描いたであろう作品が目を引く。
「秋田県の祭り・行事 調査報告書」には地口の奉納は主に神尾忠雄氏(後述します)と地元の子供たちによるとし、子供たちとは町内会子ども会の子たちで、神尾さんの指導を受けながら描いているそうだ。子供ならではの瑞々しく、可愛らしい画風の絵燈籠が数多く飾られる。

本殿の雰囲気も素晴らしい。


この神社はいにしえより度々移転(「遷宮」とも言うみたいです)が繰り返され、現在の保戸野鉄炮町へ落ち着いた経緯がある。「秋田県の祭り・行事 調査報告書」によると「康平年中、源頼義が鞍馬寺毘沙門天として勝平明神の名で仰ぎ、寛文2年(1662)川尻毘沙門町に移し、延宝6年(1678)には八橋に遷り、明治19年に保戸野鉄砲町の秋葉神社と合祀して現在地に再建」ということらしい。また、「そうした歴史から勝平神社という名より地元の人は毘沙門さんと親しんでいる」とも紹介されている。

あらためて正門側にまわる。


「秋田県の祭り・行事 調査報告書」には「勝平神社に地口絵燈籠が奉納されるようになった時期は明らかではないが、古老の伝えによると近世中期江戸で流行り出したものが間もなく伝えられたという」と紹介されており、江戸由来の風習が秋田に伝播したことが分かる。また、東京では「地口行灯」として今も祭礼や都内各地で数は多くないものの根強く残っているようだ。

参道には御なじみ神尾忠雄さんの作品が並べられる。
長年にわたり、絵燈籠の制作に携わり、独特のほのぼのとした画風はこの行事には欠かせないし、今なおご健在だ。


神尾さんは地元保戸野鉄砲町のこのお祭りをけん引されてきた第一人者だ。絵燈籠と関わる経緯について、秋田魁新報に「神尾さんが絵灯籠を作り始めたのは、1968年から。当時は絵描きが不在で行事が途絶えていた。幼いころから絵灯籠まつりが大好きで、中止が続くさみしさから半紙に灯籠の絵を描いて飾っていたところ、隣人から評判が広まった。神社から灯籠の絵を描かないかと声がかかり、行事の復活につながった」と紹介されていた。一度は途絶えたお祭りを復活させ、半世紀の長きにわたり携わるとともに、後進の指導にもあたるまさにレジェンド。魁には「近年は行事がメディアに取り上げられて知名度が高まり、周辺だけでなく県外からも訪れる人が増え、にぎわいが増してきたと感じている」と、祭りが息を吹き返して、その魅力が地元内外に認められている様子にも触れられている。

仄かな明かりが綺麗です。


鳴り物や掛け声が飛び交うような祭りではないが、以前はだいぶ様相が違っていたようだ。
前回の記事でも紹介したが、「秋田県の祭り・行事 -秋田県祭り・行事調査報告書-」には「戦前の勝平神社の祭礼には、櫓が建てられ余興や様々な奉納行事が行われていたという。とりわけ今と違って電灯が少ない時では、夜間の照明を兼ねた地口燈籠はこの賑わいをさらに盛り上げるものであった」と記されている。時を経て、現在では素朴な明かりを放つ絵燈籠が祭りの中心となり、訪れる人々を優しく癒してくれる。

神尾さんの作品群


ほのぼのとした作風が特徴の神尾さんと言えども、ロシアによるウクライナ侵攻を題材にするとやや筆致が鋭くなっている印象を受ける。
このお祭りは2014年に開催された「第29回国民文化祭・あきた2014」の県民参加事業の1つとして参加している。
県民参加事業には全34団体が参加したようだが、秋田の魅力を発信する事業のひとつとして地口絵燈籠も役割を果たしたわけだ。
当時のスケジュールを見ると、2014年10月18日の13~16時のあいだにここ勝平神社に絵燈籠が飾られたようだ。秋たけなわの午後に沿道を飾る絵燈籠というのも、普段のお祭りとは違う風情があったんじゃないだろうか。
なお、先にこの祭りは近世中期江戸で流行り出したものが伝えられたと言われている、と説明したが、国文祭実行委員会作成のパンフレットには「元文3年(1736年)川尻に鋳銭場が設けられた時に元文5年頃江戸より職人が稲荷神社(銭座)のお祭りに持ち込み飾ったとされる」とより詳細な説明が記されている。


予想していた以上に訪問客が多かった(とは言えごった返すとかでは全くないです)。2020年にはコロナのせいで絵燈籠が飾られず、Facebookにて作品を公開するというかたちでまさしくオンライン開催となってしまったが、コロナ禍にめげず途切れることなく続けられているお祭りでもある。この頃はちょうどコロナ第6波と第7波の谷間の時期だったこともあり、コロナを気にしつつもちょっとした解放感を得たいという訪問客たちの思いがなんとなく感じられた。


約20分ほどで鑑賞を終えて、家路に着いた。
例年通りの素朴で美しい地口絵燈籠が印象的だった。
2020年はコロナ禍の影響を受けたものの、2021年・2020年と続けていつも通りの祭りを開催できたことは本当に喜ばしいし、これからも変わらぬ美しさを放つ素朴なお祭りであってほしいと思う。


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