脇本の山車どんど

2017年8月7日
秋田の竿燈」「駒形のネブ流し行事」と来て今回は「脇本の山車(やま)どんど」
こちらも前2回と同じ七夕行事。まさに七夕三連発、七夕三部作というかんじである。
ただし、脇本の山車どんどには、これまで紹介した七夕行事と異なり「山車」が登場する。
しかも、前回の駒形のネブ流し行事の静謐さ、素朴さの対極にあるようなお祭りだ。
どことなくロマンチックな「七夕」のイメージを、真っ向から打ち消すぐらいのパワーに満ちあふれた祭りだったことを最初に伝えておきたい。

この祭りの名前だけは以前から知っていた。
祭りの行われる男鹿市脇本本郷は国道101号線沿いの地域だが、開催日8月6・7日の少し前ほどになると道路沿いに祭りの規模とは不釣合なほど立派な看板が立てられていて、管理人は何年も気になっていた。
調べてみたところ、「秋田の祭り・行事」に祭りの内容が記されているし、youtubeに結構動画も上がっていたので、概要を知ることができた(こちらのサイトでも分かり易く紹介されています)。
これが看板。それにしても住所の「男鹿市脇本脇本字脇本」はちょっと長くないですかね?

8月7日
この日は平日。少し早目に仕事を切り上げて男鹿市脇本へ向かう。
男鹿までは小一時間の距離、ということであっさり現地に到着
どういった様子の祭りかは知っていたが、どれぐらいの山車が出るのか、何時から始まるかなど基本的なことは知らない。
ということで近くのコンビニに入り、女性の店員さんに尋ねたところ、以前山車どんどで笛を吹いていたということで祭りの開始時間などを教えてもらった。
最後に「楽しんできてくださいね!」と声も掛けていただいた。
たいていコンビニで「○○祭りについて聞きたいんですが‥」と質問をぶつけても、よく分かりませんみたいな返答をされることが多いなか、とても丁寧に教えていただきありがたいかぎりだ。
得をした気分です。

それから少し時間をつぶしたのち、7時すぎに脇本本郷へ向かう。途中の風景

地区の中へ入るとさっそく山車がありました。

家々の玄関先には七夕飾りが飾られている。

何台の山車が出るのか、山車はどの町内から出るのかといった基本的なことが分からなかったので、祭りに向かう途中の男性をつかまえて尋ねてみた。
山車は計4台で、町内については‥
①天神町・館下
②学校通り
③新町
④栄町
から出されるとのこと
なお、男性曰くかつては‥
⑤仲町
⑥御札町・荒町
⑦浜町
からも出されていたが、現在は出ていないそうだ。
現在は井川町在住ながら、この祭りのお囃子方を務めるため、実家のある脇本本郷まで駆けつけたというその男性からは、山車の台車には今も馬車が使用されていること、山車(あるいは山車に使われている角材)は5年に1度ぐらいの間隔で取り替えられること、脇本本郷は戦国武将 安東愛季の居城 脇本城の城下町として発展してきたこと、男鹿市は愛知県春日井市と小学生児童交流を行っており、その一環で春日井市の子供たちが行事を訪れたことなど、多岐に渡る話を聞かせていただいた。
その知識と情報の豊富さにびっくりさせられたのだが、さらにびっくりしたのは、その男性が当ブログのことをご存知だったことだ!
こんなちっぽけで吹けば飛ぶよなブログ(どんなブログだよ‥)を読んだことのある、ごく少数の中のお一人にお会いするという状況には心底驚いたが、やっぱり嬉しい!

いいかんじに暗くなってきました。

こちらが祭りの運営本部です。

保存会会長さん(かな?)

山車どんど保存会制作のポスターとパンフレットを頂戴した。
男鹿市は、なまはげ関連の観光施設、多くの宿泊施設、ジオパーク認定された独特の自然景観など、観光コンテンツ目白押しの自治体であり、それらのパンフレットの発行種類は数知れず‥というかんじだが、山車どんどのパンフレットは初めて見た。
また、ポスターに関しても初めて見た訳だが、よく見ると開催年(2017年)の記載がない。
以前にドカッと枚数を発注したものが捌けるまで、何年も使えるようにしようという作戦らしい。
非常に賢明なやり方ではある。

そうこうしているうちに遠くからお囃子の音が聞こえてきた。
音のする方向へ向かうと、山車がこちらに近づいている!どうやら「学校通り」の山車のようだ。

動画をご覧いただくと分かるように、とにかくにぎやかだ。
途中で山車を止めているのは、ご祝儀をくれたお宅前で御礼の口上を申し述べるためだ。
連打されまくる太鼓の拍子に「山車どんど、それえっ!!」の掛け声と、渋さとは無縁の甲高い口上がかぶさり、絶叫に合わせて手持ち花火が振り回される。
目にも、耳にも派手なお祭りだ。

こう言っては失礼だが、山車は思った以上に立派で、武者人形も精巧に作られている。
学校通りの山車には、猪退治で名を馳せた鎌倉時代の武将 仁田忠常がモチーフの人形が飾られている。


前回の記事「駒形のネブ流し行事」と同様に、このお祭りもはっきりとした起源は謎となっている。
県立図書館で借りた、男鹿市教育委員会発行の「男鹿半島 – その歴史・自然・民俗」によると、この祭りのことが書かれた文献で最も古いものは、昭和7,8年頃に脇本尋常高等小学校が編纂した「郷土誌資料・第二号」ということだ。
当然、それ以前から祭りは行われていた訳だが、どうやら明治時代に山車を曳き始めたという説が有力らしい。

山車は少し進んでは止まり、ご祝儀をあげた家々の前で御礼の口上を披露する。

そして口上のたびに手持ち花火がぶん回される訳だが、以前は花火ではなく火のついた藁の束を振り回していたらしい。
この暑い夏の盛りに火のついた藁はさぞ暑かっただろう。
だが、花火の場合も短パン姿の子供たちの足に火花がパチパチと当たっているだろうから、やっぱり今でも大変なことには変わりない。

学校通りの山車は地区の広い通りに出た。
で、そのはるか前方を見るともう1台の山車がこちらに向かってきている。

これは「天神町館下」の山車だ。
以前は天神町と館下で別々の山車を曳いていたようだが、現在は合同運行の形を取っている。

天神町館下の山車も見てみましょう。


こちらの山車は「平将門の最期」
学校通りの武者人形に負けず劣らず立派な作りだ。
祭り前にいろんなことを教えてくださった井川町の男性によると、人形は解体せずにある程度の年数続けて使用されるらしい。
また、「男鹿半島 – その自然・歴史・民俗」によると、以前は取り外し式になっている顔だけを外して、顔以外のからだ部分は海に流していたそうだ。
ネブ流し(七夕)行事においては、川や海に汚れを流し落とす意味でいろいろなものが流されていた訳だが、人形を流すネブ流し行事というのはちょっと珍しいのではないだろうか。


口上を述べたり、お囃子を奏でたりする以外にも、寄付金集め、山車の材料となる杭や木の調達、大人たちへの山車の組立の依頼といった裏方的な仕事も全て子供たちが担っているそうだ。
近年は子供数の減少により、大人たちが加担しないと立ち行かない状況ではあるが、子供が主役の祭りであることに変わりはない。
様々な苦労や辛抱を乗り越えて祭りを実行する過程は、子供たちにとって、実に有意義な、大人への通過儀礼とでも呼ぶべき貴重な体験となることだろう。


口上は以下の通り述べられる。
「東西東西、花の御礼を申し上げます。一つ金○○万円也、右は○○様より山車の御花としてご祝儀に預り、ありがたく、ありがたく頂戴つかまつりまーす!!」
例えば千円のご祝儀をいただいた場合には、「一つ金一千万円也!」とコールすることになる。
中にはおそらく1万円のご祝儀のことだろう「一億万円也!」というのもあった。
一億万円‥一兆円??桁がデカ過ぎてよく分からない。
因みに昔は十銭の場合、十円と言っていたそうだ。

学校通りと天神町館下の山車がどんどん距離を縮める。
こういった行事では2つの山車、屋台同士が対面した場合、お互いの町内の意地とプライドをかけて勢いを競い合ったり、ぶつかりあったりなどの迫力あるシーンが見られることがある。
山車どんどでもそんなシーンが展開されるのか!とワクワクヒヤヒヤしながら見ていたら、全くそんなことはなく、なんだか和んだ空気ですれ違っていた。
この動画では、学校通りが口上を述べ、天神町館下がお囃子を合わせるというコラボが展開されているようにも見える(たまたま、そのように見えただけっぽいけど)。


力いっぱいの太鼓を披露した天神町館下のお囃子方
こちらのタイガーマスクは赤いパンタロンを履いていたので、初代タイガー佐山聡を模したと思われる(笑)

日がとっぷりと暮れて、家々の灯籠が綺麗に輝き出す。


先に紹介した、「郷土誌資料・第二号」には「七夕、子供等竹をとりて晩に小灯籠を付て天の川を祭る、各町々には競いて山車をこしらへ一番よきを一等とせし」と記述されている。
各家々の軒先の七夕飾りも、この山車どんどには欠かせないアイテムとなっているようだ。

今度は学校通り、天神町館下のいた反対側の方向から新町の山車が入ってきた。
地区に入り、いちばん初めに見た山車だ。

こちらの武者人形は、壇ノ浦の合戦での源義経の八艘飛びがモデルとなっている。
よく見ると、義経がピアノ線のようなもので吊るされている。
おおー、ホントに飛んでるんですね~

ここまで見てきた武者人形、全てが平安時代~鎌倉時代にかけてのものだ。
この頃は「大鎧」と呼ばれる、のちの戦国~江戸時代あたりから見れば、やや大仰で実用性に欠ける(素材の問題もあるのですが)鎧・甲が一般的だったが、壮麗さにかけてはのちの時代とは比較にならないほど素晴らしい。
やはり、この鎧姿の武者人形のほうが見栄えがよいということだろう。

新町の山車が通過していく。


胴長の太鼓に細長いバチというのは、あまり見かけない形だと思う。
先に話を聞いた男性によると、この太鼓とバチは男鹿の盆踊り「ダダダコ」の際にも使用されるそうだ。
一日盆踊りで使用される太鼓もこのようなかんじだったし、男性曰く井川町のお祭りの際に脇本の太鼓を融通することもあったらしい。
男鹿~湖東(八郎潟東岸の地域)にかけて広く一般的な形態の太鼓ということになるのだろう。

運行ルートに面している商店は大繁盛でした。

先に教えていただいたように、ここ脇本本郷は脇本城の城下町だった。
脇本城跡は平成16年に国指定史跡になり、今年平成29年4月に続日本の百名城のひとつに選ばれた。
管理人も以前一度城跡を歩いたことがあるが、日本海が一望できるうえに天気が良ければ海に浮かぶ鳥海山まで見えてしまう、とても眺めのいい場所だ。
その脇本城跡から眼下に真っ直ぐ延びる通りが脇本本郷のメインストリートなのだ。
この行事を脇本城跡から眺めたらどんなかんじなのだろう。
夏の夜闇に、煌やかな山車が子供たちの元気な掛け声(多分、脇本城まで聞こえるでしょう)とともに運行する様子はとても印象的だと思う。

4町内のうち、3町内の山車は見た。
最後の町内、栄町の山車が近づいてきました。

それにしても栄町の口上は元気がいい、というか何かスゴイ。
先に少年たちの口上を「渋さとは無縁」と書いたが、栄町の口上はしわがれていて(単に声が枯れただけか?)渋くてかっこいい。
写真の彼のことを「師匠」と呼びたい気分だ。意味が分からんが。


師匠の後ろにブッ倒れた人の足が見えるが、誰かがサボって横になっているとかではない。
栄町は織田信長が家臣 明智光秀の裏切りに会い京都本能寺で自害した際の、信長の家来「森蘭丸」の活躍ぶりをテーマにしているので、森蘭丸に討たれた明智方の武将ということなるだろう。
本当に作りが細かいです。


がなる師匠!!絶好調ッス!

お囃子方ももうヤケクソ混じりというか、力任せの太鼓叩き放題というかんじだ!
これもスゴイ!

栄町の山車を見ていたところに、一番最初に登場した学校通りの山車が再登場


栄町と学校通りがすれ違う。
山車は決して自分の町内以外では運行しない、ということはなく、他町内の人からご祝儀をいただいたような場合はその方のお宅前で口上を披露する。
中には、脇本本郷の住人ではない(ようだ)が、ご祝儀だけ渡します、という方もいた。
そういった方々ひとりひとりに対して、お礼の口上・太鼓叩きを披露するわけなので、山車の曳き方、囃子方含め皆たいへんな労力である。

お囃子には一応笛が付いているが、太鼓の轟音と口上の勢いに押されて笛のメロディがほとんど分からない。

太鼓と口上のバックに「ヒョロヒョロ」と笛の音が僅かに聞こえるかんじだし、断片的に聞こえるメロディは太鼓の乱打、絶叫に近い掛け声とどうもマッチしていない。
が、それでもこのミスマッチとも思えるアンサンブルは妙に耳に残るというか、何故か気になってしまう。
ヤバイ‥クセになりそうだ。。。

時刻は8時半を過ぎた。
もう1時間以上山車を見続けたし、あとは各山車が自分の町内に戻るだけらしいので、管理人もここまでの観覧として、秋田市に帰ったのだった。

脇本の山車どんど
実際に見てみると、その騒々しさは格別だった。
「騒々しい」などというと印象が悪いかもしれないが、おそらくこの騒々しさにはネブ流し行事(七夕行事)が本来持っている睡魔を追い払う意味があると思う(はっきりとは確認していないが)。
そういう視点で見ると単にうるさいとかではなく、きちんとした理由によって作られた騒々しさであることが分かる。
であれば、口上はより甲高く、太鼓はより手数を増やし、花火はより派手に打ち回されなければならない行事なのだ。
そのような様式の七夕行事が今もこの地に、しかも昔ながらに子供たちの力で成り立っていることはちょっとした驚きである。
これからも毎年8月6日・7日に、この日本海に面したかつての城下町にけたたましい音色を響かせてくれることだろう。


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