男鹿のナマハゲ2018

2018年12月31日
2018年11月に男鹿のナマハゲが「来訪神:仮面・仮装の神々」の一つとしてユネスコ無形文化遺産に登録されたのは記憶に新しい。
秋田随一の観光コンテンツとして日本国内での知名度は抜群だが、これからは世界の人々に知られる行事として脚光を浴びることになる訳だ。
その、なまはげ⤴️⤴️の機運に乗っかるかのごとく、3年連続となる大晦日のナマハゲ行事訪問を決定。
一昨年の北浦安全寺、昨年の北浦相川と来て、今年訪れたのは船越八郎谷地荒町

ナマハゲ行事に精通している方であれば「船越のナマハゲって有名か?」という疑問が湧いてくるだろう。
現在ナマハゲ行事は男鹿市内の80ほどの集落で行われているが、男鹿半島の中心地域である男鹿中と呼ばれる地域のナマハゲが有名なのであって、半島南側の付け根に位置する船越はそこまでナマハゲに心血注いでいる印象はない。
にもかかわらず、船越をチョイスしたのには理由があって、大晦日当日は17時まで仕事が入っていて、その後男鹿に移動した場合男鹿中方面では時間がかかってしまい、しっかりと行事を見れないリスクがあったので、秋田市にもっとも近い地域の船越を選んだワケだ。
それともう一つ、一昨年の北浦安全寺は山間地域、昨年の北浦相川は海沿いの地域であり、今年は山でも海でもない、住宅街である船越のナマハゲを見てみたい、というのがあった。
言うなれば街のナマハゲ!「街」と「ナマハゲ」の二つの語に全く親和性がないようにも思えるが、とにかくそういう理由もあった。
行事前日の30日に当地に出向いて地域内を軽く下見するとともに、自治会長さんにもお会いしてブログ掲載許可をいただいて大晦日に備えた。

下見の際に撮影した公民館周辺の様子。道路を挟んで公民館向かいに八郎潟防潮水門がある。

八郎潟防潮水門の反対側に住宅街が広がっている。このすぐ近くに八郎潟の漁民たちによって建立された八龍神社がある。

なお、このへんの正式な地名は「男鹿市船越八郎谷地」ですが、地元の人たちが呼んでいる「(船越)荒町」と呼称を表記します。

12月31日を迎える。
仕事もそこそこに(真面目に働けよ、、、)17時過ぎに会社を出て一路、男鹿を目指す。大晦日の交通量は多くなく、1時間ちょっとで船越荒町へ到着。ここがナマハゲ宿となっている公民館

中には誰もいない。前日に自治会長さんがナマハゲは16~17時ぐらいには宿を出発すると仰っていた通り、すでに地域内の巡回を開始したのだろう。後から合流します、と自治会長さんに伝えていたので、これからナマハゲ一行を追跡することになる。

船越荒町の住宅街

ここ船越荒町は個数200戸ほどの地域で、もちろんずっと昔からこの地に根を下ろしている家もあるが、新興住宅も多い。
また、伺ったところでは地域内に農家は0件とのこと。
ナマハゲが着用するケデ(藁で作った上着)については近隣地域から調達するそうで、それはそれでものすごい苦労があると思う。
ナマハゲ行事については以前は行われていたものが一度途絶し、6~7年前に復活したそうだ。
現在男鹿市では交付金という形で、ナマハゲ行事を開催する集落や地区に補助を実施していて、船越荒町でもその制度を活用してナマハゲが再び行われるようになったらしい。
なお、船越地区全体では他にもいくつかの地区でナマハゲ行事が今も行われている。

ナマハゲ一行がなかなか見つからない。
シーンと静まり返ったなかにナマハゲの「ウオーーーーッ!」という叫び声がどちらかの方向から聞こえているので、付近にいるのは間違いないのだが、どの方向かがよく分からない。
明らかにナマハゲが落としていったと思われる藁が一本落ちている。これを辿っていけばナマハゲに会えるのか?警察犬か、俺は?

「ウオーーーーッ!!」がだんだん大きくなってきた。そしてついにナマハゲ一行を発見!やってんなー。


ちょうど来訪の場面に立ち会えた。迫力があってナマハゲの怖さ、圧がダイレクトに伝わってくる。
先にここ船越はナマハゲ行事の中心的地域ではないと書いたが、だからと言ってナマハゲが迫力不足とか怖くないとかそんなことでは全くない。
行事へのこだわりに温度差があるのは事実であっても、男鹿の地でナマハゲを行う以上は恥ずかしげにウオ~(*´д`*)」とかやってる場合ではないのだ。これがナマハゲが「文化」として息づいている地の実力なのだろう。
また、先に船越荒町では一時行事が途絶したと書いたが、正確には子ども会の行事として続けられてきたこともあり、今日ナマハゲを務めている皆さんはナマハゲの所作や振る舞いについては十分理解しているように見えた。

家々をまわる。大晦日の静かな夜、ナマハゲの足音だけが聞こえる。


一昨年、昨年に訪れた地域のナマハゲはナマハゲ3匹×2組の編成で、地区を手分けする形で巡回を行っていたが、船越荒町では4匹で1組の編成となっている。
稲雄次さんの著書「ナマハゲ」には男鹿市と旧若美町(現男鹿市)の地域別の編成パターン統計が示されていて、それによると2匹×1組が圧倒的に多く、次いで3匹×1組という具合になっており、4匹×1組という編成は最も少数派の部類に入る。
ただ、「ナマハゲ」は30年ほど前の著作になるので、今は実情が全く変わっている可能性もあるだろう。
また、通常はナマハゲの到来を各家庭に告げる先立ち1名と、ご祝儀を受け取るかます担ぎ1名の計2名が同行するが、船越荒町ではシンプルに先立ち1名というスタイルを採っていた。

こちらのお宅ではありがたいことに中にあげていただきました。


実は、こちらはナマハゲを務めるお一人の方のお宅ということもあり、迎える側のご家族の皆さんも結構カジュアルで、お膳を用意したり、戸を開け放ってナマハゲを待ったりと昔からの作法で迎える訳ではない。
この後、ナマハゲは多くのご家庭をまわることになるが、お膳を用意して待っていたご家庭はごく僅かだった。
これは船越荒町だからとかいうことではなく、男鹿全域において、お膳を用意して待つというしきたりがかなり薄れかかっていることを表していると思う。
昨年の北浦相川では、お膳を準備していたお宅の数は結構高い割合だったが、ナマハゲの風習が色濃く残っている北浦相川だからこそなのだろう。
前日に荒町自治会長さんに、管理人が昨年北浦相川を訪問したこと告げると「あっちのほうはナマハゲの本場だからなあ」と仰っていた。
ナマハゲの本場である男鹿市内においても、北浦相川含む男鹿中の中央地域がさらに強烈に本場感を持ち合わせていることをあらためて窺い知ることができた。

踏切をわたり、JR男鹿線船越駅前の通りへと移動。

先ほどは住宅街の中を巡回していたこともあり、通りかかる車は皆無だったが、駅前通りともなるとそれなりに車が行き交っている。
で、ナマハゲは何故かは分からないが自動車も威嚇する。オメ達!安全に運転しろよ!ウオーーーッ!!ということになるのだろうか。。。

運が悪いとナマハゲに囲まれる。

スルーされたりもする。

家々を廻る。


ナマハゲを迎える各家庭の作法も様々だ。
先に書いたようにお膳を用意するご家庭は非常に稀だったが、そもそも居間にあげるお宅が多くなく、大半が玄関先で出迎えるスタイルだった。
ナマハゲを迎えるためのお膳の支度が面倒とか、ナマハゲが去ったあとの片付けがたいへんとかで、昔に比べて行事がずいぶん簡素になったとよく言われるが、それはまさにその通りで一抹の物足りなさを感じるのは事実だ。
ただ、その反面ナマハゲが時代の趨勢を捉えて形を徐々に変化させているとも見れる訳で、かつて明治時代中頃に荒々しさが過ぎたがゆえ警察から行事禁止を申し渡されたときに、神社と結びつくことで精神的宗教的なバックボーンを作り上げて禁止処分を解かれ、命脈を繋いだのと共通するものがあると思う。

一軒のお宅にお邪魔させてもらった。


4匹のナマハゲの面は全て異なっていて、角ありタイプ2匹と角なしタイプ2匹に、それをさらに青面と赤面に分けることができる。
角ありタイプの方は観光ナマハゲに近い顔つきなのに対し、角なしタイプの方は眉毛がつながっていてちょっとユーモラス。
キャッチャーマスクのバンド部分を流用して面をくっつけたタイプで装着具合は問題なさそうに見える。
なお、青面と赤面については赤が夫、青が妻を表わすとされているナマハゲもあるようで(夫のほうの面が赤いのはナマハゲが酒を飲んで赤くなっていることを表しているんだとか)、その法則をあてはめると今日は夫婦2組ということになるのだろうか。

粛々と移動

さあ乗り込むか

玄関先でウオー

車が来たらウオー

一昨年の北浦安全寺、昨年の北浦相川のナマハゲは手ぶらだったのに対し、船越荒町はナマハゲの必需品とも言える出刃包丁を持っている。
稲雄次さんは「ナマハゲ」のなかで、ナマハゲ行事の総本山 真山(しんざん)地区では素手であることを指摘したうえで「出刃包丁はナマハゲの恐ろしさ表現の手段の一種であり、補完的なものにすぎなかったといえよう」と記されていて、火剥ぎの目的を遂げる上でそれなりに意味はあるが、それほど重要ではないというスタンスを取られている。
江戸時代の紀行家 菅江真澄が文化8年(1811)に書き留めた行事の様子に登場するナマハゲも出刃包丁を携えているので、古くからの必携アイテムと思われがちだが、演出のための小道具でしかないということだ。

駅前通りの巡回が終わった。先ほどの住宅街方面に戻ってひと暴れ

ナマハゲもお疲れか?

こちらのお宅にもあげていただいた。


こちらのお宅では簡素なお膳を用意して待っていた。
ナマハゲが年配の方の体調を労わって優しい言葉をかける。
昨年は子供たちの泣き声があちらこちらで聞けたような気がしたが、今年は管理人が見た中では泣き叫ぶ子供はほとんどいなかった。
これはナマハゲの怖さ度が足りないとかいう話ではなく、そもそも地区の子供数が少なくなっているうえ、留守だったり在宅中であっても対応しなかったりというお宅も多く、子供と接触すること自体多くなかったせいだと思う。
新興住宅の多い船越荒町においても少子化、若者減少の問題というのは深刻らしく、その点では秋田の農村地域となんら変わりはない。
管理人から見れば実に暮らしやすい郊外の街のように思えるが、内実は大変なことも多いということだろう。

ケデから落ちた藁を頭に巻くと無病息災で過ごせるという言い伝えがある。また、翌日朝まで片付けてはならないとされているが、その言い伝えは今も守られているものだろうか。


船越地区は昭和30年までは旧船越町として、それ以降は男鹿市船越として今日に至っている。
日本海域文化研究所の刊行した「ナマハゲ -その面と習俗-」には、船越地区の説明として「江戸時代初期には、米代川流域や八郎潟周辺の材木が集積されていたため、材木奉行が駐在していた。これら木材に関係する人々も多くいたが、八郎潟漁業も盛んであり、これに従事する人も多かった」と記されていて、そういった点からも旧天王町(現潟上市)と歴史的文化的に結び付きが強いと考えられる。
旧天王町においても天王本郷、二田(一区~四区)といった地域で現在もナマハゲ行事が継続されているようだし、船越のナマハゲと天王町のナマハゲの類似性、共通性を探るのも面白いかもしれない。
なお、奇祭として有名な東湖八坂神社例祭統人行事は、天王本郷と船越の両地区の祭りとして行われている。

どんどんまわる。


各家庭の住人たちと言葉を交わし、交流する。
ナマハゲを務めた方々、自治会長さんから直接伺ったものではないが、「ナマハゲ」を読むと船越地区で一度ナマハゲ行事が途絶したのは昭和57年であり、それまで同地域ではナマハゲ入来を希望する家庭は電話でナマハゲ宿に依頼していた、との記述がある。
また、NHKのニュースこまちで取り上げていた男鹿市払戸小深見(船越から3kmほどの距離/今年からナマハゲが復活)では、事前にアンケート表を各家庭に配布し、入来の希望を確認していた。
ナマハゲが圧倒的に上位であり、傍若無人な振る舞いも許容せざるを得なかったいにしえの頃と比べると、ナマハゲと地域の距離感が少しずつ変わってきていることが依頼方法一つ見ても分かるようだ。

巡回も終わりに近づいている。


これまで3~40軒ほど回っただろうか。
気のせいか、ナマハゲを迎える不安や緊張感より、待望のナマハゲが来た!という喜びの感情のほうが強く感じられる気がする。
ナマハゲとは各家庭で暴れるもの、という概念は昔のものであり、今や地域コミュニティの存続の担い手としての役割を持つに至っているが、船越荒町においてはその傾向がより顕著に現れていると思った。
一昨年、昨年の鑑賞時には子供のみならず、ナマハゲを怖がるあまり困惑した表情の大人もいたが、今日に限ってはそのような様子の人はいなかった。
その代わりナマハゲの「マメであらがあ!」の呼びかけに「んだんだ、マメでらよ~」と嬉しそうに応える年配の方々がとても印象的で、ライトでマイルドな船越荒町のナマハゲ行事の本領を見た思いだ。

そして各家庭の巡回をすべて終えて宿に戻る。時刻は20時20分、管理人が見始めて2時間弱が経過していた。皆さんお疲れ様でした!

宿に入り、まずは面を奉納

無事に行事が終わったことを神前に報告し、手を合わせる。

そして乾杯、直会の開始です。

行事の緊張感から解き放された皆さんが、飲めや歌えやの盛り上がりを見せるのかと思いきや2~30分ほどで終了。
至極簡素な慰労会とはなったが、大晦日の夜に地区の公民館でささやかに催される直会というのも実に味がある。
かえって行事が無事に終わった安堵感が伝わってくるようで、とても好ましく印象的な酒席だった。管理人も皆さんの散会と同時に船越荒町をあとにした。

ナマハゲの中心的地域ではない地区でのナマハゲ、ということで当初は盛り上がりに欠けたらどうしようかなどと考えていたが、本場男鹿中にも負けないぐらいの力強いナマハゲを見ることができた。
たしかに本場に比べると濃密さという点では譲るものの、それがゆえに各家庭で迎える皆さん方に笑顔が多かったような気がする。
子供たちも心の底から怖がるというのではなく、どこか愉快に楽しんでいる様子で、ここ船越荒町ならではのナマハゲ行事を見れたと思う。
荒々しさは保ちつつも、どこかにゆるさと笑顔を伝えるナマハゲたち - これからも街のナマハゲ行事として続いていってほしい。


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