2019年6月2日
初夏の日差しが眩しいこの日、午前中に見たキリスト祭りに続いて本日2件目の行事、小坂町濁川の虫送りを鑑賞した。
この行事は一昨年初めて鑑賞して以来3年連続の訪問となる(昨年・一昨年の様子)。
全くの部外者である管理人を温かく迎え入れてくださった、とても印象深い行事であるとともに、今や数少なくなった虫送り行事を見られる場でもある。
虫送りで使う人形は当日朝に作られる。
本当は人形制作から行事を追うのが理想的だが、今年はキリスト祭りが終わった後に新郷村~小坂町と移動して虫送り行列に合流することにした(行列は14時から巡行開始)。
12時過ぎに新郷村を発って国道454号線~国道103号線と進み、一旦鹿角市へと戻って昼ごはんを食べたのち、国道282号線を北上し、小坂町へと入る。
まずは巡行の拠点となっている川上摺臼野神社へ。
すでに行列は出発したあとなので誰も人はいない。
集落の中村周傍さんが本業の米作りの傍ら著述した「無為漫録 第一集」によると(一昨年、行事の際に周傍さんより頂戴しました)、摺臼野神社は1567年に当時の濁川館の領主だった秋元左馬之助が建立したそうだ。
本殿内にはかなり年代物の奉納額が多数納められており、この神社が濁川の人々の鎮守社として長い歴史を持っていることがよく分かる。
行列は摺臼野神社を出発し、国道282号線を少し北上した場所を起点にスタートする。
途中で休憩ポイントが何箇所かあり、多分ここで待っていれば合流できそうだという場所で少しの間、行列が来るのを待つ。そして待つこと10分あまり。やって来ました!!
「赤奴~、白奴。振り出せ~、振り出せえ!今年も豊年、満作だ~」聞きなれた掛け声が遠くから近づいてくる。
行列を見ると、成人男性が中心だった一昨年・昨年に比べて、女性や子供の姿が目立っていてなんだか賑やかだ。
現在では、虫送り本来の害虫の駆除と豊作祈願という意味合いが薄まり、地域活性化や地域住民の結びつきの確認が行事存続の理由となっているが、そう言った意味では性別年齢問わず、たくさんの参加者がいることは実に望ましいことだ。
また、昨年お世話になった秋田元気ムラのスタッフの方もいらっしゃったし、「秋美」こと秋田市の秋田公立美術大学のゼミの先生と生徒さんたちも参加されていて、一層賑やかさが増している。
無事に皆さんと合流、顔見知りの方々にご挨拶。
6月とは言え、これぐらい天気が良いとさすがに暑く、休憩ポイントで飲み物を補給。
白の着物を着た男性(白奴)が、中村義信さん。
一昨年行事に初めてお邪魔した時からいろいろとお世話になった方で、今回も事前に行事スケジュールを教えていただいたし、濁川含む川上地区の伝統行事について、都度管理人にスケジュールを教えてくださるたいへん心強い存在でもある。
そのうち2月14日に行われるという雪中田植えの様子も見に行きたいと思う。
午前中に作られた人形がこちらです。
小柄ながらがっちりした体躯。人形は男性・女性を対にして計2体作られ、行列とともに巡行したのち集落外れの川原で焼かれる。
そうすることで、集落の厄災を消し去るとされている。
県立図書館で借りた「青森県南部地方の虫送り」を読むと(小坂町も旧南部藩領であり、文化圏としては青森県東南部と同じとされている)、青森県内では濁川と同じように人形を制作する虫送り行事がまだまだ残っているようだが、人形は大きさや形など様々なようだ。
また、道祖神のように集落境に設置するところもあり、虫送りと道祖神祭が融合しているような地域もあるようだ。
休憩が終わると出発。おお!小学生の男の子が太鼓演奏、かっこいい!頑張れ~
大太鼓を載せた軽トラが随行するのも、濁川の虫送りの特色の一つだ。演奏する曲目は「高屋(たかや)」。
周傍さんの著書「無為漫録 第二集」には8月16日に行われる川上地区連合盆踊りにおいて、4~5年前に地元の小学生の子が太鼓奏者として加わったことが紹介されている。
地域ぐるみで若い世代に伝統芸能を引き継いでいく努力を重ねた結果、今日の虫送りでもこのように小学生の男の子が太鼓奏者として行列に加わるという成果に繋がった訳だ。
この後はしばらく道路沿いに民家のない場所となるため、皆車で移動を開始する。
管理人は車をここから遠く離れた川上公民館へ置いているため、昨年同様に秋田元気ムラのスタッフの方に乗せていただいた。2年連続で申し訳ありません、助かりましたm(_ _)m
今日は100点満点の空模様。
一昨年は雨天により行列の巡行が行われず、川原で人形を焼き払って直会を行ったのみで終わってしまった。
それに比べればちょっとの暑さなど問題にならないし、こうやって平穏に行事を行えることが何より嬉しい。
虫送り行事は全国的に年々減少する傾向にあり、「青森県南部地方の虫送り」には「農耕技術の進歩や農薬等の普及により、呪術的といえる行事の必要性を感じなくなったり、信仰心も薄らいできたことに加え、過疎化による人手不足が拍車をかけたことなどが考えられる」と記されている。
それを踏まえれば、こうして何事もなかったかのように行事が執り行われているのはちょっとした奇跡のようなものなのだ。
車での移動が終わって、巡行を再開。義信さんが道端で腰掛けているご婦人を発見、すかさず近づいていく。
女性は男性の人形に、男性は女性の人形に触れることで自らの厄を人形に移すとされる。
また、巡行によって集落中の厄災を引き受けることで家内安全、無病息災を実現できるとされていて、単に害虫を集めるという以上の意義が含まれている。
なお、「青森県南部地方の虫送り」では、青森県上北郡北部や下北地方には虫送りと同じ趣旨のヤメボイ(病追い)と称される行事もあり、虫送りとの関連性の調査を今後の課題と挙げていた。
巡行は続く。
「赤奴~、白奴。振り出せ~、振り出せえ!今年も豊年、満作だ~」以外にももう一つ「女子(おなご)の~!木登りぃ~!下からぁ見れ~ばぁ!(以下自粛します)」という、下品極まりない掛け声がある。
何ともふざけた掛け声にも聞こえるが、良く解釈すれば豊年満作・子孫繁栄の願いを分りやすく台詞化したと捉えられないこともない。神聖なんだか、低俗なんだかよく分からん。
濁川会館で小休憩。ここでまた水分を補給。
人形も自販機に寄りかかってひと休み。
先に(青森県南部では)人形の大きさや形は様々、と書いたが、「青森県南部地方の虫送り」を見ると(カラー写真がふんだんに掲載されていて、人形の特徴がよくわかります)ひとの実寸ほどの人形もあるし、頭部分に顔を描いた紙を貼ったりするタイプもあるし、本当にバラエティに溢れている。
濁川の人形は大きさこそ小振りなものの、それが逆にマスコット的な可愛らしさを生み出している。
ただ、以前は脚部もかなりがっしりと作られていたのだが、現在では細くなってしまい、往時とは徐々に変わってきていることが伺える。
休憩が終わって再出発。本当はこの後国道を外れて集落内を巡行するルートを辿るが、今日は時間がないということで国道を直行するルートに変更
帽子の男性は濁川の区長さん。と言うか、今は区長を退任されたとお聞きしたが、管理人的には「区長さん」とお呼びするのが馴染んでしまっている。
時折、その大きな声で行列に喝を入れて、ダレ気味になる巡行を引き締めていた。
巡行後に行われた直会の場でのご挨拶でも、午前中の人形制作に4人しか集まらなかったことを指摘し、行事を続けるのであればもっと集落中が一致協力せねばいかん!と力説されていた。熱く頼りになる”兄貴”だ。
肩車される童のようにも見える人形
行列は赤奴、白奴のほかに槍持ち、はさみ箱、幟旗持ちなどで構成されている。
秋田の祭り・行事には「昔、殿様が農村の豊作を祈願する行事があり、農民たちがその行列をまねて、その年の豊作と厄除けを願ったものと伝えられています」と記されている。
「青森県南部地方の虫送り」を見ても、このように殿様行列の様式を取り入れたものは見当たらなかったので、この点は濁川オリジナルと考えて良いと思う。
また、同著では「南部地方の虫送りに芸能などが付随することはさほど多くない。しかし、津軽地方においては虫送りの行列の先頭に荒馬や太刀振りと呼ばれる芸能がつく場合が多く見られる。また、五所川原市域などでは行列に仮装した人たちが加わるのも特徴的である」としていて、行列の構成も地域により特色があることが分かる。
賑やかな行列
徐々に陽が傾いてきている。
日中の暑さも和らいで、気持ちよい空気を感じながらの巡行が続く。
全国的に見ると、松明に明かりをつけて夕暮れどきに巡行をはじめる虫送りが一般的なようだが、青森県内の集落は日中に行われていたし、ここ濁川も同様だ。
おそらく松明行列のスタイルは日が暮れてからの出発、ということだと思うが、虫送りの様式による地域分布については今ひとつはっきりとしないところもある。
おそらくは現在残っている虫送り行事の正確な数の把握も難しいのだろう。
7~8kmに及んだ巡行も終盤に近づいている。
道路を外れて川原へと続く道を下りていく。
川原で早速人形を焼き払う準備にかかる。
男女の人形を和合させて、その周囲を持ち運んできた祭具で取り囲み、この後人形に火がつけられることになる。
たびたびこのブログでも紹介してきたが、以前は橋から川へと人形を落として川へ流していたものが、近隣地区から苦情があがったということで今は焼き払うスタイルへと変わった。
「青森県南部地方の虫送り」には、青森県内の地区で橋から突き落として虫送りをしている写真が掲載されていたが、人間ほどの大きさの人形が橋から落とされる様子は結構生々しかった。
それに比べれば、濁川の人形は随分とラブリーな人形なのでそこまでのインパクトはなかったと思う。
そして点火
人形がほぼ焼き払われた。これで集落じゅう、集落の人たちの厄は煙とともに消失したこととなり、虫送りが無事終了したことを告げることとなる。
これもまた例年通りだが、カッターで人形の藁を徹底的に切り刻み、少しの厄も残らないぐらいに焼き尽くす。
先に書いたように、今は虫送りに害虫駆逐の本来の意味は薄らいできたが、この部分の所作はかつての虫送りの意義が色濃く残っているようだ。
人形を焼き払ったあとに参加者一同、濁川会館へと移動して直会の開始。
今年も小坂町町長さんと、新任の教育長さんがお見えになっていた。
なお、本当はこの場は直会ではなく、さなぶりということらしい。
カンパーイ!おつかれさまでした。
写真の右側でこちらに向かって高々とコップを掲げている男性が中村周傍さんだ。
「無為漫録 第一集」にはさなぶり(※田植え後のお祝い)に関連して「我が郷土には、昔から田植えが終わることを”ゴガツアガリ”と称した。今日、余り聞かない方言的な表現だが、ゴガツアガリの声を耳にすれば、集落の誰もが田圃に早苗が整然と植え揃った光景、そして難儀な農事を遂げての村人の安堵感を正鵠に表す”ことば”であった。」と記述されている。
そしてゴガツアガリに集落を上げて行われるのが今日の虫送りということになる。
おそらく皆が無事に行事を終えた安堵感と、ゴガツアガリの開放感とで美味しい酒を飲んだはずだ。
毎年のことながら管理人もご相伴に預かった。いつもながらに美味なたけのこ汁でございます。
しばらく集落の方々、秋美の皆さんとお喋りを楽しんだのち、濁川会館をあとにした。
帰ろうとする管理人に、義信さんが「これ、持って帰れって!いいから!」と缶ビール数本を持ってきてくれた。いや、それ俺が差し入れたビールだし。。。
今年も濁川集落の皆さんと楽しいひと時を過ごさせてもらった。
たくさんのお子さんたち、さらには秋田元気ムラのスタッフさん、秋美の皆さんも加わって、ますます行事の規模が拡大するぐらいの勢いだが、区長さんの挨拶にもあったように人形制作を行ったのは4人だけということで、行事を支える側の負担が増えてしまっているのもまた事実。
それでも、濁川の皆さんのチームワークと元気さがあれば乗り越えていけるはずだし、小さい子たちへの伝統の継承も着々と行われているようでとても心強い。
これからも旧南部藩領の伝統を受け継ぐ秋田の行事として、たくさんの人に集まって欲しいし、ずっと続いていってほしいと思う。