毛馬内の盆踊り2019

2019年8月21日
今年も県内各地の盆踊りを巡り、幸せな夏を過ごすことができた。
西馬音内を中心とする県南の盆踊りの饒舌な地口と優雅な踊り、一日市を中心とする南秋地域の力強い太鼓と野性的な踊り - 本当に秋田の盆踊りはバラエティに富んでいて面白いと思う。
そんな盆踊り巡りの締めを飾るのは、この盆踊り以外にありえない。そう。鹿角市の「毛馬内の盆踊り」

西馬音内、一日市と合わせて、秋田県三大盆踊りの一つとして知られている盆踊りで、管理人は5年連続の鑑賞となる。
彼岸の彼方まで連れ去ってしまうかのような幽玄さが特徴であり、こんな素晴らしい盆踊りがなぜ鹿角市毛馬内にだけ伝承されているのか本当に不思議だ。
そしてもう一つ特徴的なのはその衣装。男性は紋付、女性は留袖(色はともに黒がベース)に男性は水色、女性は桃色の蹴出しを着用、そして目以外の顔の部分を頬かむりで覆い隠す ― かつて南部藩と秋田藩の境界だったこの地では婦女の略奪が相次いだため、顔を隠すために頬かむりを着けたと云われている - 独特の衣装で、雰囲気満点だ。
とにかく、秋田いや日本国内の盆踊り好きであれば、この盆踊りをスルーすることなどできないはずだ。

当日 - ここまで毛馬内推しの文章を書いておきながら恥ずかしいのだが、野暮用に時間がかかってしまい、家を出るのがかなり遅くなってしまった。
ただでさえ遠い毛馬内を目指し、国道7号~国道285号~秋田道~東北自動車道と進み、十和田ICで降りたのが20時。
踊りは20時から始まっているはずなので、途中からの鑑賞となるし、19時半からの毛馬内大太鼓演奏はもちろん終わってしまっている。会場近くの駐車場に車を止めて、こもせ通りへと急ぐ。


すでに一曲目となる大の坂が始まっていた。
毛馬内は本来二十日盆(東北地方で陰暦7月20日のこと。門火をたき、その火で握り飯や餅を焼いたり、男女の藁人形を焼いたりする。←デジタル大辞泉より)の踊りだったそうだ。
それをお盆に里帰りした人たちも一緒に踊れるように8月15日に変更したものの、大湯大太鼓や花輪ばやしなどとスケジュールがもろ被りになってしまい、参加者の減少を引き起こしたため、現在のように8月21日~の開催に変更した経緯がある。
だが、そのことで却って夏の終わりを告げる象徴のような行事になっていると思う。

独特の雰囲気を持つ踊り


この盆踊りを象徴する踊りである大の坂
盆踊りの起源である(死者の供養、極楽浄土への願いを風流化した)念仏踊りの影響を色濃く残すと言われているとおり、優雅ではあるものの華やかさはなく、しめやかな雰囲気の中、踊りの列が続く。
幽玄の笛の音はまるであの世へ導くかのごとく侘しくも荘厳であり、葬送曲のようでもある。
盆踊りの楽天性、享楽性を一切排除したさまは「極北の盆踊り」とでも呼べるような冷ややかさに満ちていて、このあとに踊られる「甚句」「毛馬内じょんから」も素敵だが、管理人が毛馬内を推す理由は一にも二にも大の坂の存在があるからに他ならない。

踊りの列は静かに進む。


大の坂には本来歌がついていた。
平成10年(1998年)の国指定重要無形民俗文化財指定に先立つこと20年前、昭和53年(1978年)、「記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財」に選択された際に発行された「毛馬内盆踊 -昭和54年度 文化庁記録選択事業報告書-」に、「大の坂は、今は太鼓のみで踊られるが、昔はこれに唄もついていたと云われる。昭和6年発刊の『鹿角郷土史』によると大の坂は、『太鼓と歌謡と踊りで三拍子合せる』とあるが、昭和13年に編まれた『毛馬内郷土読本』には、『近年唄手絶えんとするは嘆かわし。』とあり、昭和39年の『水交第3号』にのせた大里健治氏の文に、昭和18年頃、民謡研究家町田嘉章さんを呼んで集録したとあることから、毛馬内では、昭和10年頃には唄がつかなくなり、昭和20年頃を境にして消滅したものと推定される」と記されている。
何かの本で町田嘉章氏の採録音源がNHK秋田局に保管されていると読んだことがあるが、本当なのだろうか?


以前の記事でも紹介したが、大の坂についていた歌詞は
♪こごは大の坂 ハンハノ ハイ
ハェ 曲がるでぁ ハァヤィ
ハェ 中の ハァハェデャ
まんがりめで ナァ 日を暮らす
ハェデァ おう先ぎ ハイノソレガヤェー
意味は「この世と常世と幽明界を異にする境界は今、仏にならんとする人がとぼとぼ登っていく坂なので、その坂の曲り目でいよいよ此の世と別れなければならないのかと『ハェー曲がるでぁ』と声をだしてしまい、坂の曲り目で日を暮らして悟ったのでハイお先にごめんなさい」というもので、「毛馬内盆踊 -昭和54年度 文化庁記録選択事業報告書-」では「人生の幕切れとなる、悲しい人間終末詩なのである」と表現されている。

勇壮な太鼓の演奏


踊りの輪に入っているのは毛馬内大太鼓 - 直径約1m、幅約1.5~1.8mの巨大な太鼓だ。一人が太鼓を支えて、もう一人が演奏するスタイルで、踊りの列の先頭となって移動する。
踊りの始まる30分前から、「呼び太鼓」に始まり「高屋」「大拍子」「七拍子」の順で太鼓の独奏が行われるので、伝統の大太鼓の響きをじっくりと味わうのもよいだろう。
一般的に太鼓の皮は牛皮を用いて制作されるが、毛馬内大太鼓(というか、県北地方を中心とした大太鼓全般)には馬の皮が用いられている。
そのせいなのだろう、太鼓は「ドン!」ではなく「パーン!」という甲高い音色を聞かせる。
全部で10台近くの太鼓が一斉に演奏される様は勇壮であるとともに、その乾いた音色は僅かな虚無感を含んでいるようだ。

踊りの輪が徐々に熱を帯びてくる。


「毛馬内盆踊 -昭和54年度 文化庁記録選択事業報告書-」には「太鼓のリズムは同行する笛に合わせて打たれる」と説明が添えられている。
さらに同著に掲載されている、記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財に選択された際の座談会(昭和54年11月10日開催)では以下のやり取りが見られる。
柳沢 兌衛氏:(※管理人注:太鼓の奏法について意見交換ののち)成田さん、この太鼓の打ち方の間隔と間延びの問題、太鼓の専門としてどうですか。
成田 吉衛氏:太鼓、ご承知のとおり速めに行くきらいは多分にある訳しな。太鼓が悪いんでないと思うんだしよ。やはり、笛吹きの間さ合わせていぐとすれば、やっぱりああいう形になるわげしな。
大里 克三氏:今の髭さんが年老いたのだ。それに悪いことに、一杯ひっかけてくるから続くはずはないんだぉ。
成田 吉衛氏:この問題を本当に解決するには、やっぱり笛吹きの養成よりないですよ。
大里 克三氏:さっきのフィルム(※管理人注:鹿角市教育員会が撮影した8ミリフィルム)の中にも、笛吹きの若い者が、多く出てきたから、この人達に、間違いのない長さを教えこまねばならないのだしぉな。それが2年も3年もたってから、ああだこうだと云われても容易でないのしな。
座談会参加の皆さんの発言には「大の坂のお囃子は太鼓ではなく、笛がリードするものだ」というニュアンスが含まれている。
きわめてスローテンポのお囃子のため、本来正確なリズムを刻むべき太鼓がその役割を果たせないので、笛の音に合わせて太鼓が奏でられるということなのだろう。
たしかに、10台もの太鼓がきちんと呼吸を合わせて演奏するのはかなりたいへんな訳だし(実際に呼吸が合わず、バラバラになることもあります)、これまで考えたこともなかった特徴に気付かされた。
大の坂のお囃子が笛の独奏から始まるのは、この曲の特徴を端的に表していると思う。

美しい振り


指先をピンと張って腕を伸ばす所作や、念仏踊りの名残なのだろう、胸の前で手を合わせる合掌を思わせる所作、しずしずと進む踊りの列。そのどれもが美しい。
振り自体はいたってシンプルながら、その一挙手一投足が何か深い意味を含んでいるかのようで思わず見入ってしまう。
この盆踊りは「大の坂」「甚句」「毛馬内じょんから」全ての踊りが輪の内側を向いて踊られる。
観客は終始踊り手の背中を見ることになるが(カメラマン向けに輪の中に入る許可証を500円で販売していますが、決められた時間のみ入ることが可能なので、基本的には許可証を携えていても輪の外で見ることになります)、それでも踊りの美しさと優雅さは十分に伝わってくる。
そして、頬かむりの隙間から覗く、踊り手の目の表情がまた素晴らしい。
感情を抑制し、まるで虚空を見つめるかのような目。何か大きな力が踊り手を操っているかのような、不思議な踊りを見せられている気分になる。

独特の雰囲気が会場を支配する。


この後踊られる「甚句」については、永禄9年(1566年)に当地鹿角に攻め入った秋田城之介近季の勢力を、南部藩領主 南部信直が領外に駆逐したときの戦勝祝いとして踊られた「陣後踊り」がルーツとされている一方で、大の坂については詳しい起源はわかっていない。
一説には京都のほうから入ってきたとか、新潟県北魚沼郡堀之内町の大の坂と関連があるとか云われているが、そのことを明確に記録したものはなく、出自が謎に包まれている状態だ。
分かっているのは、明暦3年(1657年)にはすでに踊られていたという事実のみであり、大の坂の伝承についてもその踊り同様に実にミステリアスだ。

大の坂が終了。今年も冷ややかな美しさに彩られた素晴らしい踊りを見せてもらった。

毛馬内は西馬音内の盆踊りとともに、全国23都府県、計37件の踊りで構成される「風流踊り」の一つとして、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産へ登録申請されることになった。
登録審査が行われるのは2022年ということだし、そもそも審査が通って見事登録となるかさえ今のところ分からないが、以前からもっとメジャーになってほしいと思っていた管理人としては、これを機に一気に全国に毛馬内の名が知れ渡り、無常感あふれるこの異端の盆踊りをよりたくさんの人に知ってほしい、体験してほしいと願うばかりだ。

続いては「甚句」


甚句は伴奏なしで歌い手の歌のみで踊られる。
荘厳な雰囲気だった大の坂とは異なり、鹿角甚句のたおやかな調べが会場に響いて心地よい。
鹿角甚句については、その名前の通り当地鹿角に伝承される甚句唄ということでよいが、そのルーツについてはいろいろな説がある。
昭和46年に秋田魁新報が刊行した「秋田の民謡・芸能・文芸」によると、「まず名称説は①越後生まれの成功者甚九郎を歌いはやした『甚九郎節』から出た ②地ン句(土地土地の唄)からの音韻変化 ③神前に奉納する唄『神供』から出た - の三つだ。一方、全国の『甚句』に長い口説調と、七七七五の小唄調の二種類があるところから、①『兵庫口説』源流説と②これとは別に南部の『じんく踊り』が、同地方の民謡『ナニャドヤラ』(小唄調)の唄で踊ったのが、各地に分布したとする”甚句二種類説”がある」としたうえで、「江戸中期に関西辺で流行した『兵庫口説』の変化形『ゑびや甚九』が源流でこれが越後に伝わって踊り唄に登用され『越後甚句』というパターンを確立したとする見解が最も新しい見方だ。~中略~しかも越後はゴゼの本場だ。彼女らが越後系の『甚句』を東北に移入したとすれば、波及の説明もつく」と記している。
西から伝わってきた踊り唄が越後(新潟県)で形を成してその後東北に伝わり、旧南部藩領を中心に同系統の甚句が広まったということであり、同著は刊行から50年近く経過しているが、ネットで調べたところおおよそ同著に記されている内容から変わりはなく、ルーツについては西からの伝播が定説化されたということになるのだろうか。



甚句は豊年を祈願するもの、郷土を讃えるもの、盆踊りの喜びを歌うものなどが歌詞になっている。
♪サーハー 甚句踊の始まるときは ヘラも杓子もサァ手につかぬ
♪揃うた揃うたと 踊りコ揃うた 稲の出穂より なお揃うた
♪踊り踊らば 品よく踊れ 品のよいのを 嫁にとる
♪盆の16日 闇の夜でくれろ 嫁も姑も 出て踊る
♪狭いようでも 鹿角の里は 西も東も 黄金(かね)の山
また、鹿角甚句は合いの手を一つ入れる「一つ甚句」と、二つ入れる「二つ甚句」に大別される。
動画を見てもらうと分かるように、ここ毛馬内は一つ甚句で踊られているが、「秋田の民謡・芸能・文芸」によると一つ甚句・二つ甚句ともに「超スローテンポで、よそからきた人は、手が合わないとさえ言われる」特徴を持つそうだ。

仮装の踊り手が現われました。


鮮やかなピンク色の着物姿の皆さん。あとで聞いたら会社の同僚の皆さんでチームを作って参加されたそうだ。
大の坂と異なり、甚句ではいろいろな衣装の踊り手を見ることができる。
私服のまま飛び入りで踊る人もいるし、演奏を終えた太鼓奏者や笛奏者も踊りの輪に加わっているし、厳粛な雰囲気の大の坂とは対照的に賑やかな雰囲気となる。
ただ、羽目を外して騒ぎ踊るかんじでは全くなく、凛とした甚句の独唱に合わせて、踊る喜びをしみじみと噛みしめる、といった風情だ。
ちなみに柳沢 兌衛氏の著書「毛馬内の盆踊」には明治時代の踊り手の写真が掲載されており、それを見ると大名のような裃姿や達磨のような被り物を付けた踊り手などが写っていて、当時の人たちがかなり自由に仮装を楽しんでいたことが分かる。

愉し気な踊りの輪


先に紹介した「毛馬内盆踊 -昭和54年度 文化庁記録選択事業報告書-」の座談会では、甚句の唄のテンポについても意見が交わされている。
大里 克三氏:で、いつか魁新報に、馬渕さんが、今の歌と昔の歌の速さの違いを述べていましたが、どの程度の違いなのですか。
馬渕 ソノ氏:どの程度も昔とだと本当に違おんだぉ、(今のは)遅くて‥‥。とにかく昔は、セッタをシュッシュッと鳴らして、手だてチョイチョイと小さく振って踊ったたえに速いんだおんし。それに唄だて合わせて歌ったのし。
和田 定見氏:私ら、よっぽど後からの話ですけれども、今ならば年寄りの方だけれど、私らの習ったあたりからでも本当は大分ゆるやかになったわけです。何というか、踊りの張りというものが、唄のせいでもないでしょうが、そういうものが欠けたような気がします。
馬渕 ソノ氏:しなが入りすぎてしまった訳だ。
和田 定見氏:足の配り方もしな、昔まあ下駄など履いて土の道路でジャラッジャラッとやって下駄の減るまでやったという調子で、足の勢いにも手の勢いにもそのリズムがあった。今は、ぞうりをはいて、あまり擦らないようにしずしずとやっている。まあ、音を出しても出さなくてもいいのですが、踊りの振りがあまり優雅すぎてしまった。
かつてはもっと早いリズムと唄で踊りも全体的に快活だったことがうかがえる。
また、今の毛馬内は白足袋に草履を履くのが普通だが、昔は下駄の踊り手もいたとのことで現在と大分イメージも変わってくる。
ただし、下駄履きなのは踊り用とかそういったことではなく、普段の履物のまま踊りに参加したと捉えるべきだろう。
履物といえば同じく座談会のなかで歌い手の服装のことにも触れており、仕事終わりの恰好のままゴム長靴を履いた歌い手がいて、そういったところはもっとちゃんとしなきゃいかん、みたいな話題も上がっていた。



甚句は歌い手が輪の中央に設置された2つの台に代わる代わる上がり、唄が途切れないように工夫されている。
大の坂も素晴らしいが、毛馬内の人たち(特に歌い手)にとっては地元に古くから伝わる鹿角甚句を披露する場でもあるし、どちらかと言えば甚句のほうに熱心なような気がする。
実際に先の座談会もその大半が甚句に関するもので、大の坂についてのトークはごくわずかだった。
甚句には酒屋唄、鉱山唄などの労作唄が含まれることもあり、甚句の方がはるかに生活に密着した調べだったのだろう。
さすがに現代の踊り手たちには、甚句からそれほどまでの生活感を感じ取ることはないと思うが、この地で長年大切にされてきた唄であり、自分たちが守らねば、という意識は確実にあると思う。

唄にも熱がこもります。


甚句が終わった。
先に書いたような理由で、毛馬内の人たちにとっては(おそらく)大の坂以上に我が郷土の唄・踊りであろう甚句。
年配の方から若者まで、男女問わず次々と歌い手たちが唄をつないでいく、郷土毛馬内に脈々と伝わる伝統の踊り唄を聞かせてもらった。
かの西郷隆盛の実弟で、明治新政府時代に要職を歴任した西郷従道が鹿角を訪れた際、宿泊先の庭先で披露された毛馬内盆踊りの素晴らしさに、思わず自らも庭へ降りて踊り始めたエピソードとともに毛馬内の人たちの誇りであろうし、これからも長く歌い継がれていってほしいと思う。

続いては「毛馬内じょんから」


毛馬内じょんからは明治時代に弘前市に陸軍の連隊があった頃に、連隊に入営した青年たちが毛馬内に持ち込んだとされる新しい踊りだ。
いつの頃からか「大の坂」「甚句」に続いて踊られるようになったが、本来は盆踊りの余興の踊りの位置づけであり、正式なレパートリーではなかったそうだ。
これはいい踊りだなあ、と先人たちが思ったからこそ盆踊りのレパートリーに加わったのだろうが、そこには旧南部藩領内という共通する文化・生活圏を持つ土地柄同士だったことが背景にあったと思う。
秋田・岩手・青森の3県にまたがって領地を形成していた旧南部藩内各地域の結びつきは、おそらくその地で生まれた人にしか分からないものがあると想像する。
そういえば、弘前の陸軍連隊といえば明治時代に起こったかの有名な八甲田山雪中行軍遭難事件で210人中199人が遭難死した青森第5連隊と対照的に、一人の死者も出さずに同時期に同じコースを踏破した弘前第31連隊の所属する連隊だと思うが、新田次郎著「八甲田山死の彷徨」を夢中で読み、映画「八甲田山」を見て集団遭難の恐ろしさに戦慄した管理人的にはそっちのほうも気になるところだ。(←そっちって何だ?というのはありますが、、、)

活気のある振り


毛馬内じょんからは甚句と同様に歌い手の独唱に乗って踊られる。
大の坂、甚句に比べて振りはかなりダイナミックになり、足を前方に大きく出す所作や「シャシャン、シャン」と手拍子を続けて打つ所作が入る。
じょんからと言えば津軽を代表する民謡として全国的に有名だが、その語源は戦国時代に浅瀬石城(現在の青森県黒石市内)落城の際に命を落とした、神宗寺の常椽(じょうえん)和尚の墓が浅瀬石川の川原に建てられ、お盆の時期になると常椽和尚の名から取った常椽川原(じょうえんがわら →じょうかわら →じょんからと変化)に人々が集まり盆踊りに興じたところから来ているそうだ。
そういった意味ではじょんからが踊られるのは正しく慰霊の意味を持つものであり、この盆踊りを締めるのに相応しいような気がする。

甚句に比べても飛び入りの踊り手の数が増えて、ますます賑やかになる。多くの踊り手が頬かむりを取り、手ぬぐいを首にかけて素顔で踊りに興じる。


いた!いました。ふじけんさんです。
このブログでもたびたび紹介しているが、東京在住ながら秋田の盆踊りをたいへん気に入られて毎年盆踊り行脚を続けているふじけんさん。
今年は東成瀬村田子内盆踊り西馬音内一日市でお会いして、ここ毛馬内で4度目の再会を果たした。
ほかにも湯沢市岩崎盆踊りにも毎年通われていて、そのスケジュールもすごいが、さらにすごいのが現地の盆踊りの伝統的な衣装を正しく着こなして、現地の人たちと同じように踊ってしまうスキルの高さ。
ここ毛馬内でも、お連れの方を伴って笑ってしまうぐらいにフツーに踊りの輪に加わり、さらっと踊っていらっしゃった。

そろそろ踊りが終盤に近付いてきた。


大の坂の様式美とは様子がだいぶ異なり、飛び入りの皆さんが「アハハ‥」などと笑いながら楽しく踊りに興じる。
この自由さが毛馬内じょんからの特徴なのだろう。
そもそもが盆踊りの余興という位置づけなので、振りをかっちりと合わせないといけないことはないし、多少違っていても全く気にするものではない。
以前に見た、青森県新郷村のキリスト祭りでのナニャドヤラも、2回の踊りのうち1回目が奉納踊り、2回目が余興踊りの位置づけだったが、2回目は完全にリラックスムードで次から次へと飛び入りの人たちが輪に入る楽しい踊りだった。
先に、甚句の唄のテンポが昔に比べて遅くなってしまい、闊達さが失われてきたと紹介したが、今ではその特徴を毛馬内じょんからが受け継いでいるようにも思えるし、厳粛な大の坂のときに溜め込んでいたエネルギーを発散する意味でも、結構重要な位置づけの踊りではないだろうか。

そして21時半になり、踊りが終了

毛馬内じょんからが終わると、踊り手、観客が「おつかれ~」というかんじで一斉に会場を後にする。
多くの踊り手たちが明日からの踊りに備えるように早々と引き上げていく中、ふじけんさんは今日が秋田盆踊り巡りの踊り納めとなる。
帰り際に立ち話をしたが、もうすでに来年の盆踊りに心が逸っているいるようにすら見える、元気なご様子が印象的だった。
お連れの方とご一緒に来年もお越しください。お待ちしておりまーす😀😀😀

3日間に渡る踊りの初日ということで軽く肩慣らしの意味もあったかもしれないが、十分にその素晴らしさを堪能できた。
初日は子供盆踊りコンクールが開催されるし、2日目と3日目は他団体の客演もあるし(今年は2日目は青森県黒石市の「黒石よされ」、3日目は北秋田市の「李岱駒踊り保存会・奴踊り」が披露されたようです。盆踊りと駒踊り・奴踊りのコラボ!)、コンテンツも充実していて、見るものを飽きさせない。
今、この記事を書いている時点で(2020年4月。前年の盆踊りの記事を翌年の春に書くって‥と我ながら思いますが、そこはご容赦ください!)新型コロナウィルスの影響で、夏に行われる県内の伝統行事のいくつかは中止が決定している。
現時点では、毛馬内が8月21日~23日のスケジュール通り開催されるかは分からないが、夏の終わりをモノトーンに包み込むかのような幻想的なこの盆踊りに再び会えることを願っているし、それだけの期待を込めるに相応しい盆踊りであることは間違いない。


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