東長野ささら

2020年8月9日
このブログを始めて丸4年。いろんな伝統行事を見てきたなあ‥といっちょ前に感慨深い思いに浸ったりする訳だが、ちょいちょいその名を聞くものの未だ見たことのない行事がある。
ささら – 県内では主に、仙北地方と呼ばれる大仙市・仙北市の一部と、県北の米代川沿いの地域の2個所を中心に保存団体が活動を行っている伝統芸能だ。
県内では「ささら」の名称で通っているが、全国的には「三匹獅子舞」として知られており、wikiでは「関東地方を中心とした東日本に広く分布する一人立ちの三人一組からなる獅子舞であり、一人立三匹獅子舞、三頭獅子舞などと言うこともある」と紹介されている。

そして今回お邪魔したのは大仙市豊川東長野地区で行われている「東長野ささら」
コロナ禍により、多くの伝統行事が中止に追い込まれる中、例年通りの実施を決めた数少ない行事だ。
大仙市に市内のささら行事の開催状況を照会したところ、ささら5団体中3団体が実施するという(因みに今年開催した他の大仙市の団体は「国見ささら」と「横沢ささら」となります)。念には念を入れて、東長野ささら保存会の窓口の方に電話で伺ったところ、市外からの観覧客も問題ないとのこと。やったー、これは見に行かねばなりますまい😀

当日 - 19時のスタートに合わせて17時に自宅を出発。
コロナによる観覧の制限はないものの、雨天の場合には行事は行われないそうだが、この日は朝からずっと雨☔️☔️☔️午後になりようやく小降りになったものの、現地に行ってみないとやるかどうか分からない有様。雨よ、止んでくれー!
また、この日は気温も上がらずとても盛夏とは思えない、もう夏が終わってしまったような雰囲気だ(翌日からはカラッと晴れて夏真っ盛りの好天になりました)。雨も心配だが、イマイチ気分が盛り上がらないまま現地を目指す。
神宮寺付近から見た豊川東長野のあたり。ちょうど雲の切れ目にかかってるし。。。

18時半、現地に着きました。


相変わらず雲は多いが、どうにかもってくれそうな天気だ。
それはそうと、集落のなかに人影が見当たらない。宿となる「東長野会館」にも誰もいないようだ。このあと集まってくるのだろうか、、、

宿の近くにある別雷(わけいかづち)神社へ行ってみましょう。


ただでさえ日が暮れ始めているのに、背の高い木々で囲まれた境内はかなり薄暗い。
中仙町史(現在は大仙市だが、同地域は旧中仙町に属していた)には、創立に関して「この神社はもと東長野71番の地にあったが、天明8年(1788)1月9日焼失した。その年の8月15日まで再建した」と記されていて、昭和63(1988)年8月19日には創立200年祭が執り行われた。
また、同誌によると、菅江真澄の「神のうるふ田」にも「鎮守豊隆権現(鎮斉雷公)祭日九月九日・斉主重右エ門」とその名称が登場するそうで、由緒ある神社であることが伺える。

宿へ戻ると、灯りが点いてました。無事開催されるっぽいです😀

日が暮れると同時に関係者が続々と集まってくる。
管理人と同じような見物客の姿を探したが、見つけることはできなかった。
マスクは装着しているものの、コロナのこともあるし、会館内に立ち入ることはできないと思って外をブラブラしていたところ、関係者のお一人から「中入れば?」と声をかけていただいた。
本当は固辞すべきなんだろうが、中の様子をちょっと見てみたいという誘惑に負け、お誘いに乗ってしまう💦

玄関開けたら、いきなり面が置かれていた


黒・赤・緑(※管理人注:いろいろな文献を読むと緑ではなく、青と紹介されている場合もあります)の3種の獅子面が各2つずつ、計6体置かれていて、各色の面を大人3人・子供3人で装着し、2グループを構成することとなる。
中仙町史には「中仙町に残っている長野ささら・東長野ささら2組の獅子面は極めて類似しており、全高54cm、あごから頭上まで25cm、両耳の幅35cm、40cmの二本角をつけた張子づくりで、竹骨の下地をつくり、和紙を重ねて何枚も貼り合わせて仕上げたものへ色塗を塗りかけたもので軽いうえに丈夫で太い二本の角、金色に輝く大きな眼、大きな鼻と、耳まで割れた大きな半開きの赤い口、誇張した2つの耳など異様な、グロテスクなもので、この面をつくる人は長野新町、〇〇〇〇(※管理人注:個人名が書かれているので伏字にしています)以外には町内にいなかった。後には覆いを垂らして色彩のある鶏の羽根を着けて覆い、角のまわりには尾羽根を立てて装う」と書かれている。
また、ささら行事においては夫婦の獅子2匹と、雌獅子に横恋慕をする雄獅子1匹で構成されることが多く、黒 = 雄獅子(夫)、赤 = 雌獅子、緑 = 雄獅子(横恋慕する)という具合に、面の色でキャラクターが決められているそうだ。

お邪魔しまーす

間もなく始まる本番に備えて皆忙しくしているなか、お囃子方の年配男性が今日のプログラムについて教えてくださった。
最初に管理人が足を運んだ別雷神社へ行き、その後200mほど離れたお堂へと移動。最後に会館へ戻って、という具合に計3回舞を奉納するとのこと。
なお、最後の舞については会館脇に立っている、ささら伝承の祖「岩沢佐助」の石碑の前で舞われ、同氏に捧げられるものとなる。
また、盆行事として行われることの多いささらだが、決してお盆(8/13~15)の間だけではなく、7/1の獅子こしらえ(主に道具類の点検)に始まり、8/7【庚申塚、お寺・個人宅での供養舞】、8/9【別雷神社・お堂・石碑前での奉納舞】を経て、8/13以降に集落内三地区(上・中・坂ノ上)で舞を披露して、獅子納めへと繋がる一連の行事となっていることなども教えていただいた。

準備はいいかな?

まずは別雷神社から

中仙町史には「ささらは踊場から次の場へ移るときは正しい行列をつくり美しいメロディをかなでる。その行列は、ぼんぼり、鑓持ち(4人)、庭払い(オーセ)、ささらすり(ザッツァカ)、獅子(黒獅子、赤獅子、緑獅子)、笛吹き4人、歌い上げ(4人)、獅子交代(3人)というように並ぶ」と記されている。
ここではぼんぼり、鑓持ちは見られない代わりに、暗くなってからの舞だけあって提灯持ち2人が同行する。
また、神社の鳥居まではバラバラに進んでいくものの、鳥居をくぐった後は中仙町史に書かれている通り、隊列を揃えて整然と境内に入っていった。

いきなり庭払いが「ウオーーーーーッ!」と絶叫したと思ったら、それに続いて舞が始まった。


ときに体を大きく揺らし、ときにくるりと回転し、腹に付けた太鼓を叩きながらダイナミックな舞を見せる3匹の獅子。ザッツァカもそれに呼応するように見事に舞う。
一基の投光器がささら連中を照らしているが、それでも境内は暗く、まるで暗闇の舞踏会を見ているようだ。
そして力強い太鼓と流麗な笛の音、ザッツァカの鳴らすささらが舞をさらに盛り上げて、この地に長く伝わる舞の奥ゆかしさを伝えると同時に、「正月にみる獅子舞や神楽での一般的な獅子舞、いわゆる古代に外来からの影響を祖とする伎楽系(神楽系)の獅子舞とは系統を異にする中世・近世に発達した風流系の獅子舞である」とwikipediaで説明が付されているように、キレのある踊りがモダンでスタイリッシュにさえ思え、まさしくささら独自の世界が繰り広げられる。

躍動感あふれる踊り


今、目の前で踊っている3人はいずれも地元の少年たち
他の伝統芸能でも子供たちが出演することは珍しくないが、多くは大人パートと子供パートとに区別されているのに対し、ここ東長野では少年たちが大人たちとほぼ同じ形の舞を見せてくれる。それも子供ならではの可愛らしい動きや仕草などはほとんど見られない、大人たちに引けを取らない、洗練された踊りだ。
年配男性に「よく振りを覚えられましたね~、子供たち」と伝えたところ、「小っちぇ頃からずっと踊ってるがらよ。みな動きが身に付いでんだよ」と教えてださった。また、舞手のひとりの子が「今年から太鼓変えたんですけど、材質変わっちゃって重たくなっちゃいましたよ😔」と言っていた。
たしかに長く踊っていないと、決して出てこない感想だ。

太鼓の音が気持ちよく響く。


県立図書館で読んだ「秋田県仙北地方ささら事業報告集 仙北のささら」に、小学生の頃に学校の「郷土クラブ」に入部したところ、思いがけずささらを習わせられた長野ささら関係者である成人男性の回顧談が載っていた。
まあ、それでも初めはなんとなくという感じで始めたわけです。が、夏休み、同級生3人だけで練習したんです。ある日、いきなり太鼓を渡されて「3人でやってみろ」と。「でぎねで。無理だで」と思いながら、それでも大人の踊るのを真似しながら1週間ぐらいやって、また指導を受け、そして1週間くらいたってまた「3人でやってみろ」と言われて、やってみたら、何故かできちゃったんです。子どもささらだから10分くらいの踊りですが、身体が自然と動いて、最後までできたんです。3人とも呆然として「やっちゃったで」と。その瞬間が忘れられません。
ひょんなことからささらと接点を持ち、徐々に振りを身に付け、踊りを習得するに至った過程がよく伝わってくる談話で、踊り切った事実に我ながらビックリする姿が目に浮かんでくるようだ。
今、キレッキレの舞を披露している子たちも同じような経験を経てきたのだろうか。

舞が終わりに近づく。ザッツァカ舞


約20分続いた奉納舞が終わった。
「秋田県仙北地方ささら事業報告集 仙北のささら」には東長野ささらに継承されている演目が記されている。
それによると、すり込み・恋慕・関東・雷立ち・膝つき・より切り・はね切り・ねまり・かたまねぎ・雄獅子・雌獅子・笛舞・扇舞・剣舞となっており、さらに国際教養大学 秋田民俗芸能アーカイブスDVDの収録内容を見ると、他に三太・ザッツァカ舞などもあるようだ(ザッツァカ舞とは扇舞のことを指しているようです)。
終わりの数分はザッツァカのソロパートになっていたので、この部分はザッツァカ舞だとすぐに分かったが、それより前については、動きを止めて一礼する所作は入るもののほとんど休みなく舞い続けているし、伴奏もずっと続いているしで、どの演目がどういう順番で舞われているのか全く分からなかった。
このあたりは、演目・演奏・演者・舞がはっきりと分かれている番楽のような舞台芸能とは異なる点なのだろう。

神社境内での舞が終わり移動

歩いて数分で次の場所へ到着。

こちらは地元の方々が「お堂」と呼ぶ社。中仙町史では「観音堂」と紹介されている建物だろうか。

舞が始まりました。


ここで舞うのは3人の成人男性 - 先ほどの少年たちの舞をさらにパワーアップさせたかのような迫力ある踊りを見せてくれる。
別雷神社よりさらに薄暗い場所で、踊っている様子をどうにか見ることができる程度だが、道路沿いのお宅に住んでいる人たちなのだろう、明らかに見物客は増えたようだ。
舞手のおひとりから伺ったところによると、今日の踊りの中ではここお堂での奉納舞が最も重要であり、踊る時間も別雷神社(20分)、石碑前(15分)に比べて一番長い25分とのこと。どのような由来・理由なのかは伺わなかったが、この地に脈々と築かれた歴史の一端に触れた思いがした。
なお、舞の途中でドローンが飛行して、上空から踊りの風景を撮影していたが、特にSNSとかで公開する予定はないそうです。この暗がりじゃ、あんまり上手く撮れなかったのでは😅😅

↓は「ねまり」でしょうか?


県立図書館で借りた飯塚好さんという方の著書「三頭立て獅子舞 歴史と伝承」では、東長野ささら含む仙北地方の典型的な形式として、角館のささら(白岩ささらと堂野口ささら)の舞について紹介している。
例えば、ねまりについては「太鼓を叩きながら反時計回りに回りながら廻る。頭ふりながらそれぞれ時計回りに廻る。座って礼、太鼓を叩き、立って回りながら太鼓を叩く。同じことを繰り返す。向かい合ったり、背中合わせになってそれぞれ回る」、神立については「それぞれ拝んだ後、丸くなり太鼓を叩きながら、反時計回りに回りながら廻る。頭を左右に振り太鼓を叩く。座って礼。頭を左右に振り太鼓を叩く。立って、回って太鼓を叩く」といったように、かなり細かい所作を文章で紹介されているが、文章と撮り溜めた動画を照らし合わせても、やっぱりどの演目がどの場面で踊られているのかよく分からない。
ただ、関係者の方に演目に関して伺ったところ、「一つ一つの演目でねぐ、大切なのは構成なのよ。だがらここ(お堂)は他の2つに比べて演目が多く入ってるし、その分踊る時間も長げんだよ」と教えてくださった。なるほど。単一の演目というよりも、舞全体を通じてのトータル感のほうが重要ということか。強引に例えるなら、ビートルズではなくピンク・フロイド、ストーンズではなくキング・クリムゾンということか🎸🎸


「三頭立て獅子舞 歴史と伝承」では「演目としては『神立』『神楽』は奉納舞として、主に神社で行うとか、『恋慕』『ねまり』は『供養舞』で主に寺で行うという事が多いようである」と、披露する場所ごとの演目の傾向について説明が記されている。
さらに秋田大学学術情報リポジトリに保存されている、桂 博章氏(元秋田大学教育文化学部教授)の論文「秋田県における『ささら』の分布と伝承」によると「恋慕」が供養礼、「関東」は一般的なささら、「さんた(三太)」は狂獅子、「雷」は悪魔払い、「膝つき」は神仏に捧げるささら、「据」は眠り獅子、「扇舞」は道化が引っ込む時の扇の踊り、「剣舞」は納の舞といったように、さらに細分できるようだ。
また、桂氏は「芸能に対する地域的な嗜好性も,演奏形態や様式の確立に影響していると考えられる。仙北地方は民謡や手踊り,地芝居など農民の娯楽が盛んであった(中略)娯楽性を持つ芸能が豊富にあったために,儀式的機能を『ささら』に持たせたのではないかと考えられる」としたうえで、県北地方のささらについては「娯楽的要素が色濃い芸能は演じられてこなかった。そのために,秋田県北部では獅子踊りに『奴踊り』や『駒踊り』『大名行列』などの芸能を組み合わせて娯楽性を加味し,共同体の多くの成員が参加する演奏形態を発達させた」とし、仙北地方のささらと比較した場合の娯楽性の濃淡の差が、ささらの形の差異となっていると分析されている。



演目は分からないまでも、舞の形が次々と変わっていっていることは分かる。
25分もの長丁場にもかかわらず、3匹の獅子とザッツァカが一糸乱れぬ舞を披露するというのはかなりのものだ。
関係者の方から、例年であれば田植えのあとに本番に向けて数回は練習の機会があるものの、今年はコロナ禍のせいで1回しか練習できなかった、と教えていただいた。
たった1回の練習でこのクオリティか!とびっくりしたが、例年にしても数回ほどの練習しか行わないのにこれだけの踊りを披露できるというのは、やはり小さいころから舞を叩き込まれたという以外に理由はないだろう。
なので練習とは言っても、動作の最終確認というか、細部の思い出し作業というか、すでに舞の順番や所作については完璧にインプット済みで、あとはそれをトレースするだけということだと思う。
「秋田県仙北地方ささら事業報告集 仙北のささら」付属DVD(2011年撮影)や、国際教養大学民俗芸能アーカイブスDVD(2012年撮影)を見ると、5歳の男の子がザッツァカを務めるお父さんと同じ格好をして「チビザッツァカ」よろしく、同じように舞っている姿が映し出されている。
東長野は全57戸の世帯から構成されているが、そのほとんどの(もしくは全)世帯がささら保存会会員ということらしく、地区全体でこの貴重な伝統行事を下支えするとともに、幼少期からのささらの英才教育システムが備わっていることで、この複雑極まりない舞を当たり前に踊りこなすことができるのだろう。

佳境に差し掛かる。


ザッツァカ舞を以てお堂での奉納舞が終了。
道化役として、獅子3匹とシンクロしつつもコミカルな存在感を放っているザッツァカは、供養舞の際には観客の中に割って入ったり、ときにはオーセも巻き込んで笑わせるような所作で観客を盛り上げたりもする(「秋田県仙北地方ささら事業報告集 仙北のささら」付属DVDの中で角館の「広久内ささら」がそのように踊っていた)。
その役回りといい、呼び名といい、管理人が思い出すのは本海獅子舞、または本海流番楽の道化役「ゾッツォク」。娯楽的な要素を体現したようなこの舞手は、古式然とした踊りに少なからぬアクセントをつけてくれる貴重な存在だ。

最後の移動

会館に戻って、石碑前でスタンバイ。再び少年たちが舞を披露する。


神社同様に力強く、かつ流れるような踊りと、鮮やかな音色を聞かせる笛の演奏が心地よい。
今日は聞くことができなかったが、本来東長野ささらには歌がつく(ついていた?)ようだ。
中仙町史では「うたいの歌詞は口伝で長い間伝えられたものであり、東長野ささら・長野ささらと同じものもあるが、異なるものも多く、中には全く意味のわからないものもみられる」と説明を加えたうえで、多くの歌詞が紹介されている。
♪別雷様は音に聞くだにあらたかに、急き詣りて利招を受けよや(神社前)
♪此の宮はいかなるばんしょが建てたやら、四方四万石に建てた宮かな(神社前)
♪和尚様はしょけらの衣にもんしゃの裟、あがりはねては仏なるもの(寺院)
どういう風に歌が乗るのか想像できないが、中仙町史ではかなりの数の歌詞が紹介されているので、結構一般的だったりするのだろう。興味惹かれるところだ。

「佐々羅祖師 岩澤佐助之碑」と記された石碑(夕方に撮影しました)

中仙町史によると、この碑は大正15年に建立されたそうだ。
それにしても芸能の祖その人自身に捧げる奉納舞というのは、ありそうでなかなかないような気がする。
「三頭立て獅子舞 歴史と伝承」には、東長野ささらの由来に関する秘伝の巻物があるとし、その中の「弔獅子」に関する記述のあとに「右(管理人注:弔獅子の概要)は水戸御城下の内新町佐太郎と云いし者五代打続き師匠を致し、その孫岩沢佐助と云ふ者慶長七年御国替の節お供して下り御国中へ相伝す」と書かれていることが紹介されている。
このように東長野ささらについては、慶長7年(1602年)の佐竹家の国替えの際に藩主に付き従って秋田入りした、岩沢佐助により水戸(茨城県)から持ち込まれたことが明確に分かっており、その由緒正しさもこの芸能に携わる人たちの誇り、矜持の源となっているように思う。



ささら鑑賞は初めてだが、三頭獅子踊りということで言えば、これまで北秋田市綴子神社祭典(綴子大太鼓)と、本荘八幡神社祭典(日役町獅子踊)ですでに見たことになる。
2つの行事とも日中に行われたものであり、今、目の前で舞われているささらとは雰囲気が違って見えるのは当たり前だが、大きなお祭りの中の一部として披露される綴子、由利本荘の獅子踊にはない土着的な雰囲気が感じられる気がする。
冒頭書いたように、米代川沿いを中心とした県北エリアとここ仙北地方がささらの二大中心地となっているが、湯沢市の「関口ささら」や潟上市/旧昭和町の「新関ささら」(←頭部が獅子でなく、角の付いた鹿面なのが特徴らしいです)など飛び地的に伝えられている地域もある。
同じ「ささら」の名称でも当然地域差がある訳で、その違いを確かめてみるのも面白そうだ。

たくさんの人たちが集まってきた。


地元の神社の境内で、古くから伝わる伝統の舞を踊る少年たち
かつて、ささらは決して集落の外で舞われることはない(集落を悪疫から守る、といった道祖神的な意味合いも持っていたらしい)とされていたが、近年は依頼があれば他地区で踊ることも珍しいことでなくなっていた。
それがコロナ禍の影響で、今年に限っては集落の外では一切舞わないことに決定。また、今年の開催自体についても関係者一同で熟慮した末、行うことにどうにか決まったそうだ。
この記事を書いている時点(2020年12月)でも、コロナ禍第三波の猛威が世界中に暗い影を落としているが、そのような心配なく踊れる日が一日も早く来てほしいと、懸命に踊る少年たちの姿を見ながら思った。

踊りが終わりに近づいています。


コロナのこともあり、長らく行事鑑賞から遠ざかっていたが、久々に本格的な伝統芸能を見ることができた。
普段であれば、お盆を中心に県内のあちこちで多彩な種類の行事が行われるこの時期、今年は本当に僅かな数の行事が行われただけだ。
また、管理人自身のことで言えば、開催すると聞いていたものの、現地に行ってみたら急遽中止に決定したとか、〇時開始と聞いていてその時間に合わせて現地に行ってみたら、すでに行事は終わった後だったとか、逆に開催しないと聞いていたものの、数日後にメディアで開催の様子が報じられていたりとか、そんなことの繰り返しとなってしまった。
平時であれば「何だよー、ちゃんとした情報くれよー😠」と愚痴のひとつもこぼしたと思うが、今年は何もかもが異例の年なのだ。
行事の主体となる人たちは、どの情報を信じてどのように判断すればよいか分からなかっただろうし、自治体や観光協会といった周辺の人たちもどう対応してよいか分からなかったと思う。
そんな混沌とした2020年の中にあって、別雷神社・お堂・石碑前での奉納舞を無事見届けられたことは本当に貴重な経験だったし、行事そのものを見た満足感とは別種の安堵感を感じることができた。

時刻は20時。本日予定されていた計3個所での舞が終了。舞手の皆さん、おつかれさまでした😀

行事が始まるあたりには雨の心配をしていたのだが、幸いにも天気がもってくれたうえ、暑くもなく寒くもない絶好のコンディションの中、初のささら行事をみることができた。
文中でたびたび「暗がりで‥」みたいなことを書かせてもらったが、田園地帯特有の夏の夜の雰囲気も込みで、この正統的な伝統芸能の美しさを見せられたような気がする。
個人宅の巡回の様子や、寺院で舞われる厳かな供養舞も一度見てみたいし、さらには県北地方のささらも機会があれば見てみたいと思う(今年は多くの団体が中止したなか、能代市二ツ井町の仁鮒ささら踊りは開催されたようです)。地域で大切に受け継がれる芸能の素晴らしさを再確認できた夜だった。


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